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坂村健氏講演
加藤郁之進氏講演


吉川弘之


独立行政法人産業技術総合研究所 理事長
吉川 弘之



科学技術者の役割

  あるコレクションをして、そのコレクションの中だけは完全に無矛盾性を保つ。それを我々は科学領域といって、領域の外で何が起こっていても関心がないんです。ニュートン力学をやっているときに雷が落ちても、それは知らない。こういう形でずっとくる。そして、こういう単純なパラメーターによって、あらゆる現象が表現できるということがわかれば、それはまたここで不思議な力によって、そのニュートンの3法則というのをニュートンは導くんです。何十年かかってこの道に到達するらしいんですけれども、そういうことになる。それができれば、全ての運動を説明する理論というものができて、一つの力学という体系ができるんです。これが一つの学問体系だとします。


  そして、ニュートンは、まずこうやって力学をやるんですけれども、ご存知のようにニュートンは光の本も書いているわけです。 そして、これも伝記によりますと、私は見たことないんですけれども、化学の本も書いているんだそうです。しかしこれは、錬金術みたいな話がいっぱい出てくるんで、英国のロイヤル・ソサイエティ・アカデミーが、恥ずかしいから出版を禁じたとこういう話なんです。いずれにしても、こういう近代科学の父といわれるニュートンは力学をやって、もちろんはじめは力学が全てで、いわゆる神の存在を力学で証明しようとしたわけですから、はじめは力学だけで説明できると思ったんです。しかし、研究するうちに、彼は、これは彼が現代科学の父といわれる理由なんだけど、力学だけじゃ説明できないこともあるんだということで、彼は光の研究もするわけです。そのことを考えると、多分、彼は、こういった領域、無矛盾な領域というものの数をそれほど多くなく、いくつか重なれば全て自然を説明することができると考えたんです。こういった意味では、おそらく、古代のギリシャの哲学者たちと同じ、一種の方向をもっていたんでしょうね。しかし、彼はその哲学者と違うことはこういった無矛盾の領域をつくって、それを重ねることによって説明しようとしたということなんです。


  それはともかく、この方法の影響というのは極めて大きくて、私は工学にいるわけですけれども、工学も同じパターンをとっているんです。すなわち家を建てるという立場に立てば、そこには建築学というものが存在している、生まれてくる。ところが、力学ほどの無矛盾とはいえないんですけれども、基本的には建築学の教科書というのは矛盾がない。機械をつくるという立場でいくと、機械工学というのがある。それも機械工学の範囲内で決して矛盾があってはいけないんです。矛盾のあるものは機械工学という学問領域としては認められない。ですから、矛盾を小さくしようということで、一つの学問体系と、知識の体系ができてくる、コンピュータならソフトなど。そうやって次々と、全体的な、対象として有用な物をつくるという領域をどんどんつくってきたわけです。

  ニュートンと違うのは、こちらはいくつか重ねていけば、自然を全て説明できることになるだろうという、大きなターゲットをもっていたんですけども、私ども工学者というのはあんまりもっていなくて、ずーっとやれば人間がものをつくるというその行為についての全ての方法が得られるなんてことは誰も言ってないんです。建築家の人は、私は建築にしか興味ないと、電気工学なんてくだらないとこんなこと言いましたけど、そんなふうに、閉じてしまうんです。ニュートンよりもはるかに領域的になってしまっている。これは、工学に限らず、現代の多くの学問とはその特徴をもっているということを大いに反省しなければいけないことじゃないかと、私自身は考えているわけです。

  そういった意味で、今日はお話しませんけど、人工物工学と名づけたのは、建築も機械もソフトウェアも皆人工物じゃないかと。だとすれば、人工物全体をくるめて、統一的に説明する方法があるかというターゲットをおくことによって、ニュートンという近代科学の父が提案した一つの方法論に少なくとも方向としては、受け継ぐんじゃないかということなんです。

  何かができたから、何かをつくるから、それの一つの工学的領域をつくっている、というだけでは、そういったことはできないんじゃないかということなんです。しかも、問題は先ほどいった現代の邪悪なるものというのは、主としてこういうことで問題が起こってくるんじゃないかということです。私はよく言うんですけれども、建築、家をつくるということと、自動車をつくるということは、今ばらばらに行われている。自動車をつくるのは自動車工学の専門家、あるいは技術者である。家をつくるのは建築家である。

  その二つは、どこかで会うことはあるんでしょうけども、専門的には一致しないんです。したがって、道路と家の関係というのは、今、大変難しいことになっていて、自動車の音が入らないように壁をつくるとか、あるいは排気ガスが窓から入ってこないようにするためにはどうすればいいかという、互いに防御的なことはやりますけれども、一致して一つのものをつくり出すということにはなっていません。

  その典型的な例がガレージです。家の中に車が入ってくるといえばガレージです。ガレージというのは、みなさんもちょっと思い浮かべていただくといいんですが、美しいガレージってのはないんです。大体こうコンクリートが打ち放しになっていて、汚れていて、暗いところに入っていってそれで終わり。

  これは残念ながら、二つの学問領域というのは大げさですけれども、要するに家をつくるという行為と、自動車をつくるという行為が、まさに接点を持つのはガレージなんですが、このガレージの専門家はいないんです。したがって、ガレージというのは見捨てられた技術で、とにかくイメージはあまりよくないわけです。最近は、ガレージの専門家なんていうものがいまして、ガレージをいかにデザインするかなんていうのもあるんですけれども、ごく少数で、まだ未熟な世界です。

  そういったように、私たちは、もちろんこの建築の背後には理学的な知識もあるし、社会学的な知識もいろいろあるんですけれども、こういうドメインというものを作って、それでどんどん人工物をつくっていくと、できた人工物のシステムというのは、それを全体的に見る、全体を通して見る視点というのが存在していないということです。

  私は、非常に飛躍するかもしれませんが、現代の邪悪なるものというのはそういうことに関係しているんじゃないかということなんです。全体を見通す、すなわち人工というか、人間の行為の影響が全体として何を与えたかっていうことで見る視点が欠けているということが、我々の行為そのものがある種の問題として自分たちに帰ってきてしまう、これを現代の邪悪なるものと。


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