シンポジウム トップ
主催者挨拶
すすむ氏講演
廣川信隆氏講演
佐藤哲也氏講演
氏の紹介
Page 1
Page 2
Page 3
Page 4
Page 5
Page 6
Page 7
Page 8
総合討論


佐藤哲也


地球シミュレータセンター長
佐藤 哲也
佐藤哲也



シミュレーションを通してみる未来の世界 BACK NEXT

  大変ご丁寧なご紹介、どうもありがとうございます。 東京ファッション協会から賞をいただいたという、まさかそれが今日紹介されるとは夢にも思っておりませんでした。 私自身もなぜそれをいただいたのか、ちょっとわからないのです。非常にユニークであるということで東京ファッション協会からいただいたんだと思っております。

地球シミュレーターの佐藤でございます。 少し時間も押し迫っておりますので、できるだけ手短かにお話したいと思いますが、私自身も話し出すとなかなか終わらない。 その前のお二方の先生方と同じように、時間内に終わるか心もとないので、ひょっとすると延びるかもしれません。 その後のプログラムに影響を及ぼすかもしれませんが、できるだけ、後の質問を受けないためには長く話しをしておくのがいいだろうという見通しも持っております。

[図1] 今日は、「シミュレーションを通して見る未来の世界」というタイトルでお話しをしていきたいと思っております。 先端知という意味では一つの先端知ではないかと思います。先を見る、未来を見る、しかもこれがSFではなく科学的に未来を見る、 まさにこれが武田計測先端知財団の目指されるところだということを考えますと、少しは貢献できるであろう、 そういうお話しになればよいなと思ってお話をさせていただきます。

揺籃期のコンピューター

少し、コンピューター開発の道程というものを復習してみたいと思います。 チューリングという、これは数学者ですが、1936年に、コンシステント(無矛盾の)な論理体系というものがあったとしますと、 複数個、ざっと7つぐらいのオペレーション、操作を組み合わせるだけで全ての論理体系というものがちゃんと表現できますよ、 表せますよということを証明したのがチューリングです。 その後チューリングマシンといわれる言葉を、皆さんご存知の方も多いと思いますが、これが始まりだと考えていただいていいのではないかと思います。 その前までは日本などでやっていたように、そろばんが一番いい計算機、コンピューティングマシンだろうと思っておりますが、 このチューリング以降はそろばんも段々と侵食されるという結果になったと思います。

そしてこのチューリングの数学的な定理に基づきまして最初にコンピューターができたのは、非常に残念ですが、戦争に使うための大砲の弾道計算だとか、 その類のためにアメリカが国をあげて作ったものが戦後ENIACという名前で世に出てきたわけです。 これが出てきて初めて本当の、真空管などによる0か1かという二値論理だけでもって論理的な計算をするマシンができた。 ただ、このときは非常に大きくて、 しかも、その一つずつの回路を作るのに人間が真空管をつなぐコードのジャックを持って走り回るという非常に非効率的なもので、 あまり役には立たなかっただろうと思いますが、これが最初に世に出たコンピューター、いわゆる電子計算機です。素子は真空管ですが。

その後、コンピューターというものは数学ではなかなか解が得られない複雑な問題を解決する手段として発展してきました。 我々はちゃんとした基礎方程式、宇宙を支配するいろんな基礎方程式を知っております。 量子効果ですと、シュレディンガー方程式、或いはもう少し大きくなりますとニュートンの運動方程式、或いは電磁波ですとマックスウェルの方程式、 そういった方程式を持っておりますが、それ自体は簡単なように見えますが、それらが組み合わさって自然の現象は起こっていて、 実際にはその方程式を与えられても答えはなかなかわからない。非常に簡単な場合は、数学で解けますが、ほとんどの場合は複雑なリアリティの問題である。 最初の舘先生のバーチャルかリアリティかというお話もありまして、バーチャルもリアリティの一種であるというふうに言っていらしたと思いますが、 まさに数学体系、基礎方程式体系が支配する世界というものをコンピューターの中で表し、 それを現実の世界に応用しようということがコンピューターの大きな役割だと思います。

そして半導体が1948年、ショックレーとかバーディーンによって発明されまして、真空管に代わって、非常に小さくしかも高性能のものができるようになり、 戦後コンピューターの時代というようになりますが、その最初のコンピューターというのは、確かに珍しく、色々なところに使われたが、 それほど役に立たなかったというのが実状であったろうと思います。

スーパーコンピューターへと成長

それに対して1976年に一つの革命的なことが起こります。 これはアメリカの、天才的と言っていいと思いますが、シーモア・クレイという、クレイ社を作った人ですが、彼が非常に巧妙なる方法を編み出したわけです。 それは、科学計算というものは、非常に膨大なる繰り返し計算をする、やる操作は同じだけれど、データは次から次へと変わっていく、 というものが多いことに着目したことです。そういったものをできるだけ効率的にするためには今まで手仕事でやっていたようなスカラー演算を、 ベルトコンベア方式といいますか、オートメーション化しようというわけです。 ベルトコンベア方式を入れたのがベクトルアーキテクチャであるといわれるものです。 これ以後非常に計算機能が大きくなり、スーパーコンピューターという名前が出てきて、そしてそのスーパーコンピューターを使って自然の現象、 或いは機械的な設計、そういったものを大いに行っていく、そういう時代が1976年以後、10年ないし、20年と続くわけです。 けれども、思ったほど役に立たないというふうな思いを世の中の人々は感じておりまして、 そして、これが高い割にはそれほど役に立たないということで廃れていくわけです。

そしてアメリカの方では、こんなベクトル方式というのは高くて売れない。 この10年、或いは15年の間でなかなか売れなくなって、アメリカの方はIBMを中心に何をやったかといいますと、 簡単な昔のスカラー型コンピューターといいますか、パーソナルコンピューター、PC、それを作ることに専念しました。 そしてたくさんの人たちに売って儲ける。そういう形でコンピューターというものはパソコンだという時代が来たわけです。 けれども、科学計算や設計をする上で、もっともっと大きなコンピューターが欲しいという要求があり、どうしたかといいますと、 そのパソコンを並列につないでいきゃいいじゃないか、一つのプロセッサーが持っている能力を100個つなげれば100倍になるじゃないか、 1000個つなげれば1000倍になるじゃないか、そういう単純なる考え方を使って並列プロセッサーというのができたわけであります。












図1
[図1]



BACK NEXT


Last modified 2006.6.6 Copyright(c)2002 The Takeda Foundation. The Official Web Site of The Takeda Foundation.