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武田計測先端知財団第一回座談会
吉川先生と西村先生を囲んでの全体座談会
日時: 平成15年8月5日 10:00〜13:00
会場: 武田計測先端知財団
吉川弘之先生(産業技術総合研究所理事長) 西村吉雄先生(大阪大学フロンティア研究機構特任教授)
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(大戸) 西村先生、どうもありがとうございました。それでは、全体につきまして、今から質疑応答に入りたいと思います。先ほどお話されました吉川先生と、それから西村先生の今のお話と合わせて、ご質問、コメント、ございましたら、どうぞ。
1.Disciplineの価値評価
(唐津) 西村さんとはいつもお話をさせていただいているので、今日の最後の学問の価値を2つに分けようというところは、比較的今日耳新しく聞いたような気がします。アカウンタビリティの問題と、その今の学問の価値を、その体系の中での価値と外に向いた価値と区別して考えるというところを組み合わせると、何が起きるのかなと。つまり、ピアレビューはブレーキのない車だと、学問の中の価値というのはブレーキのない車の価値ということになりますね、今の話はそう聞こえたのだけれども。
(西村) まあ村上先生はそうおっしゃっています。私自身は、モード1科学と言いますか、従来型の基礎研究というものの価値は、私は人類社会全体から見ればやはり大事だと思っていまして、それは歴史的にはピアレビューはむしろ業界や政治権力からの独立ということから発生してきたのだと思うのです。それは、いわば専門分化のDisciplineの内部で厳しい知的な部分について厳しい評価をして、これはやはり専門のDiscipline内の人しかわからない部分というのがありますから、そこできちんとした知的な評価をするという仕組みは、社会全体の中ではなければいけないと思っています。だけど同時に経済的価値のほうについては、私は基本的にはモード2型でやるべきだと思っていまして、生活者の側に立っての問題をまず先行させて、そこで問題を立てて、その問題解決に必要な仕事をしていきます。その仕事の中に通常の基礎研究があることはしょっちゅうあるでしょうから、それは大いに結構だと思うのですが、出発点として生活者にとっての問題を解決するという、ここから出発します。この場合の最終成果は問題の解決です。製品をつくることもあるでしょうし、環境問題のように困ったことが起こっていて、その困ったことを何とか解決したいということが出発点になることもあると思うのですが、それを解決するためにわからないことがあって、どうしても通常の意味での基礎的な研究をしないと、どうしてもそこがわからないことがあって、これをわからないことがわかってしまわなければ解決できないとなれば、それは普通の意味での研究をやることは一向に構わないと思うのです。その時はやはり出発点として、問題意識は違っていて、その問題意識として違う2つのタイプの仕事は、人類社会全体の中では両方ともあるべきだと思います。
(唐津) いや、2つあるというのは私も大賛成で、分けるというところも大賛成で、そこまで私は100 %アグリーなのです。私の質問は前半の部分です。その中での価値というものを見た時に、その価値を高めていくためのメトリックスなり方法論なり、それは今までやられてきたピアレビューをベースとするような考え方をそのまま踏襲していけば西村さんの言っている第一部分の価値は自動的に今までどおりでいいよということをおっしゃっているのか、その中であっても何か新しいメトリックスなり方法論なりがいるのかというのが私の質問です。
(西村) 前半は先ほど吉川先生の最後のほうの問題と関係してきて、そのDisciplineというのが確立し、固定している状態で、ずっとあるものなのかということとたぶん関係しているのだと思います。おそらくそのDisciplineの青春時代の、できたばかりのDisciplineで、そのDisciplineのあり方について、あまり問題がない時は、普通の意味でのピアレビューでいいのだろうと思うのです。そのうちに、細分化の果てに、世界に10人しかわかるやつがいない研究があって、その10人の仲間の本音だけで事が成り立っているみたいなことが、Disciplineが老成してくると起こると思うのです。そういう意味ではたぶんDisciplineの組み換えみたいなことがいつも要求されるのだと思うのですが、そこででもDisciplineの組み換えや成長など、そういうことが行われる時はおそらくは今のように理念化された単純なDiscipline内の仕組みではうまくいかないはずですから、その時には必ずDisciplineの外と関係します。Disciplineの外と関係する時には、いつももうそこでは生活者が必ず出てくるのだと思います。そういう意味では、今言った私の2つは、言わば抽象化された理念形であって、完全なモード1科学と言いながら、時間的な状況の中では必ずモード2型のDisciplineの外とのインタラクションなしには、おそらくはそのDiscipline自身が成り立っていかないのではないかという感じがします。ただ理念形にした時には、Discipline内のほうはピアレビューで、その知的成果だけというふうに…。ただそれはたぶん理念化されたモデル形であって、モデル形は議論の上では必要だと思いますが、たぶんできたばかりの、青春時代のDisciplineなら典型的なピアレビューだけでやっていけるのでしょうけれども、違う分野が必要とされる時には、別に違う分野からの刺激で起こるとか、そういうことかなと思います。
(大戸) 他にいかがでしょうか。
(吉川) 今のお話と関係するのかもしれないのだけれども、私、何か、例えばモード2とか、リニア・モデルとか、そういう概念に違和感があるわけです。それはなぜかというと、こういう科学と社会の関係とか、科学者がどういうものかとか論文の外から論じているような気がするのです。科学者も人間なのです。私は現場の科学をしている人間が、ものごとを考えた時には、Disciplineの問題は、われわれは俯瞰的視点を持たなければいけないというひとつの申し合わせになり、更に社会に対しては開かれた学問とかそうではないかという決意になり、更にさっき私が申し上げたように、社会との関係は契約なんだと、自ら見ると…。やはり科学者も生き物なのですね。科学者がつくっていく根幹は何かというと、基本的には自分の研究動機なのです、モチベーションなのです。ですから例えばそういった時には、モード2もモード1も区別がないわけです。それはお金のもらい方には区別があるけれども、実は自分がモチベーションを持つ研究をしているのが研究者ですから、モチベーションのない研究者を研究者とはわれわれ呼びません。単なるワーカーなのです。そこで区別した時に、持っているのもモチベーションだけですから、そうすると何にモチベートされるのか、何に動機を持つかということが極めて重要な要因であって、マネジメントとしてのモード1とかモード2とか、そういう問題はあまり関係ないわけです。それで第一種と第二種の違いというのは、むしろそのモチベーションなのです。そういうふうに考えた時に、私はやはりそれは悪夢と言うべきであって、死の谷と言ってはいけないと言うのはそういうことなのです。自分にとってのものとしては、やはり悪夢なのです。自分が置かれている状態としてそういうフェーズがあるのですよね。でもマネジメントとしてみた時に、ああ、死の谷だからなんとかせい、とこうなるのだけれどもね。そういう問題ではないという視点で見た時に、むしろ科学のマネジメントというのは上手にいくのではないかと思うのですけれども。そのへん、どういうふうにお考えになりますか。
(西村) 前半のほうのリニア・モデルやモード1の問題、たぶんこれは、平均的に考えてみれば日本人よりも西洋人にとっての大きな問題なのだという気がするのです。先ほど吉川先生がおっしゃったのは、ギリシアなのかあるいはそのリバイバルとしての近代知識としてのFactual Knowledge とUtilization Knowledge の分類ということは、西洋人こそ、これをしたかったわけですね。古代ギリシア以来、たぶん中島先生がご専門だと思うのだけれども。その時に、これも村上先生の本からなのですが、Factual Knowledge を追求するサイエンスのほうをUtilization Knowledge で仕事をする技術者たち、中世で言えば職人たちですが、それよりも上に置くというより、上に置きたい。上に置くというのは、西洋人たちには長い歴史でして、リニア・モデルというのは実は最終成果としては、社会への価値を実現する構造になっているわけです。それにも関わらずサイエンスの人たちをいちばん上に置くという、科学のほうが優位にあるのだということを実現しているという意味は、たぶん西洋人の人たちにとっては非常に重要だったと思うのです。私はそう思っているのです。
(吉川) いや、本当にそうなのかということなのですね。というのはやはり、私はたまたまICSUという、3年、実質会長として過ごしていますからね。ICSUがなんでできたかというと、1931年にできているのですが、その時、既にDisciplineが分かれているということに対する疑問があって、本当に純粋科学の人間だけが集まっているのですね。それでDisciplineというものをどうやって壊さなければいけないのか、それはやはり科学と社会の関係と、その当時から語られているのですね。科学者自身もそうだし。私はエンジニアであるにも関わらず、私がなんでICSUの会長に選挙で選ばれるのかということは、科学者の間にもう既に、純粋科学が最高だという概念が崩れはじめているということがあって、それは既にブタペストの宣言で壊しているのです。
(西村) おっしゃるとおりで、そこはだからある意味では、この四半世紀と言いますか、ここで育っていったのがそれだと思うのです。モード2が生まれてきたというのとほぼ同じ時代からそうなっていって、ブタペストのことで、吉川先生が書いておられたように、ある意味やはり非常に画期的ですよね。同時に、吉川先生のどこかの文章の中にあったかと思うのですが、あの時、物理学会連合だけが反対したと。これがだから従来型、科学は科学のためにあり、それが物理学会だったというのは、いかにも物理学会らしいという感じがあるのですが、君臨していた物理学というかたちが壊れたという…。それが壊れていくことの、20世紀の最後の年にそれが壊れていくというのは、非常に現代を象徴しているという感じを持っています。それで先ほどおっしゃった再契約という、契約のかたちが新しくなったというのは、まさに今の問題だということになるのかという気がしているのです。
(西村) 先ほど、後半のほうをお答えするのを忘れてしまいました。今の問題と非常に関係しますが、おっしゃるように死の谷の問題はMOTの問題なのです。ですからマネジメントの問題なのだと思います。だからつまり、お金を出している側から言えば、実現させてくれないと困ります。それはお金を出した以上は何とかしろという、そっちがたぶん動機として非常に大きいのですけれども、個々の研究者の動機はおっしゃるように違うところがあるし、それから個々の研究者になった時に、モード1科学を俺はやっている、俺は基礎研究をやっているからといって、その人たちが生活者の問題にまったく無関心ではいられない。科学者としての人間と、生活者としての人間が、人格的に完全に分離されていて、生活者のことについて無関心に、ひたすら研究だけやっているというのは、理念としてはあり得ても、現実の存在してはあり得ない。そういう意味では議論のための理念の枠組みだというふうには思いますし、死の谷の問題はまさにMOTの問題なのだと、そう思っています。
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