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第12回レポート
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第12回リーフレット

第12回 カフェ・デ・サイエンス


講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)
楠岡成雄(くすおか・しげお)
日時: 2006年12月11日



数学カフェ 「確率の話」 BACK NEXT

三井:先程の本を読んだときに、確率というのは、自然現象として起こることと、それを人間の心が受け取ったり評価したりするところに、ズレがあって問題がでてくるのではないかという気がしましたけれど・・・。

>>> 独立事象の法則というのがありますね。私の場合、確率の問題を考えるときに、今迄起きていないから、この次は起こるだろうということを信じてやることが多いのですが、確率的には間違いだと言われます。本当はどうなのでしょうか。

楠岡:確率を少し勘違いされていることがよくあるんですが、経験頻度と確率が一致するということは全く主張しておりません。サイコロを10回振って1が出ないからといって、次に1が出ることを確率が主張しているわけではありません。また、独立ということは、過去のデータからは一切推測できないから独立だということで、現実にそれが独立であるかどうかは分かりません。独立だと仮定するならば、今迄どういう目が出たということと、次に何かの目が出ることとは、全く関係がありません。1回目に振ることと同じだというのが、独立の考え方なんですね。ただ、そろそろ出るのではないかという気持ちは分かります。

特に確率論のモデルの場合には、全く法則性の見つからないときは独立にしてしまえと、無理矢理ですが、そういうモデルを立てるほうが現実には非常に多いというふうに理解しています。

>>>何かわけの分からないことがあって、何かが続いていたら、次はこうなるというようなセオリーは無いということですか。

楠岡:私がサイコロを一所懸命に振ったときに、ラプラスの悪魔が、「お前がこう振るのは分かっていたから、次の目は6だ」ということはあり得ることなんですね。だから、知っている人がいればそうなります。

>>>そういう意味で、独立事象の法則というのは、統計的に確立された概念なんですか。

楠岡:死亡率などは、病気が流行ったりすると変わってきます。そういう要因が存在しないときは、独立の事象と見なせる感じが強いんですね。それはいろいろなことで立証されています。本当は独立ではないという可能性はありますが、独立というのは、最も簡単なモデルなんですね。それを覆そうとすると、非常に複雑なモデルになります。統計のほうでは、我々はよく知っていることですが、複雑なモデルを使いますと、何でも説明できてしまので、非常に危険だとしています。未来予測には、むしろ、マイナスになるということです。精密な理論を作って、モデルを立てて、全ての現象を説明にいって、次の瞬間に・・・

織田:どんな分布も正規分布の重ね合わせですから、正規分布を使えば、いくらでも近似できてしまう。

楠岡:たとえば、溶鉱炉というのは巨大なもので、レンガなどの品質はそれぞれ全部違いますから、同じように熱しても、出てくる鉄の品質は全て違う。そうすると、何時間熱すればいいのかというようなことを知りたい。それを説明変数というもので説明しようというわけです。要するに、最初に入れるものをいろいろ測って、パラメータを増やしておき、それで何とか現実を説明しようとするわけですが、実際には、ある数を超えてパラメータを増やすと、逆に、未来を予測できなくなります。では、パラメータをいくつ用意すればいいのか。それに対して答えを与えたのは、赤池さんという方(赤池弘次、1927-)で、これが最初のプレークスルーです。それまで、そういうことをちゃんと論じた人はいませんでした。今年、京都賞を受賞されましたね。

>>>ベイズ(Thomas Bayes, 1702-1761)の考え方ですと、サイコロは1の目が出る確率が1/6だという性質を持っていると考えますよね。独立であっても、そういう性質をもっているのだから、これまで1が出ていなければ、そのうちに1が出る確率は高いということにならないのでしょうか。

楠岡:ベイジアン(Bayesian)の考え方というのは、信念が最初にないといけないわけですね。確率が1/6だという信念の下では、1の目が多く出ることにはなりませんね。1の目が出たとしても、それは偶然だと考えます。確率が1ではないかと考える場合には、1の目が出れば出るほど、1が出やすいという信念に近づいていきます。

統計学には、ベイジアンとか、古典統計学とか、非常にたくさんの種類があります。ベイジアンというのは、どちらかというと、主観を重視する考え方です。

ベイズはイギリスの牧師さんだと思います。彼は論文を書いたのですが、死後発表して下さいと言って亡くなりました。この、遺族が発表した論文で、単なる確率論の定理なんですが、ベイズの定理というのを示しました。つまり、パラメータを使って、サイコロの目の出る確率はいくらであるか推定しようとしたわけです。ところが、ベイズは、その考え方がかなり異端であるということも理解していたんですね。統計学者ほど主義主張の強い人達はおりませんで・・・(笑)。

ベイズは、「このサイコロの持っている確率が1/5か1/6か分からないとき、1/5である確率は半分、1/6である確率が半分であるとすると、サイコロの確率は確率変数というものになる」と考えたわけです。最初の確率は事前確率といいますが、サイコロを振り続けていくと、事後確率というのが出てきます。そういう事後確率は、最初に1の目が出る確率は1だという信念が少しでもあれば、1の目が出れば出るほど、どんどん1に近づいていくという形になります。

実は、ベイジアンの考え方を裁判に適用しようとした人がいます。つまり、血液型を調べていき、事後確率を調べていって、この人が犯人である確率は99.999%だから有罪にしようという考え方が出てきたわけです。ここで大問題になってしまいました。この人が犯人であるかどうかは、真か偽であって、そこに確率を入れるという考え方はおかしいのではないかと。法医学の古畑(古畑種基、1891-1975)さんの話ですね。岩波新書は絶版にされてしまいまして・・・。

三井:古畑さんが間違った判定をしたケースが多いんですよね。生化学がまだそれ程発展していないときに、血液型でいろいろなことを説明されたからでしょうが、たぶん、それで絶版になったのだと思います。

織田:そのときに出てくる証拠というのは、サイコロを転がすのとは訳が違うでしょう。思い込みで、最初から犯人にしようとして、証拠を弄って、そもそも・・・。

楠岡:思い込みではないかと言われれば、皆そうなってしまいますが、統計学には、非常に多くの考え方があります。先程言いましたように、真か偽のどちらかで、それは揺るがせないというのが、ネイマン(Jerzy Neyman, 1894-1981)やピアソン(Egon Sharpe Pearson, 1895-1980)の考え方です。ベイズの考え方と非常に対立していたのですが、最近は、少し仲が良くなってきました。

織田:最初に何も手懸りがないときは、何か尤もらしいモデルを作って・・・。

楠岡:統計モデルと確率モデルは、少し意味が違います。統計モデルは、確率を知らないという立場ですね。分からないけれども、知っているが如く扱っていくのが確率モデルです。

織田:ベイジアンもそちらですか。

楠岡:ベイジアンは、本来、確率論ではないと思われている話を確率論に取り込んでいったということです。ここら辺は主観確率の問題で、ラプラスの言っていることは・・・。

織田:僕は、ラプラスの言っていることは間違っていると思っている(笑)。

楠岡:たとえば、10年後の今日、日食が起こる確率と言ったら、皆さんお笑いになると思うんですね。でも、明日晴れの確率というのはどうですか。将来、気象学が発達して完全に予測できるようになるかもしれない。そのとき、我々は一体何を言っていたんだということになります。確率というのは、そういうふうに、客観と主観で、いつも議論が分かれますから、論争は尽きないのです。だから、始まらないのではなくて、終らないのです。

三井:日食は確率の問題ではないと思うのですが・・・。

>>>原子力発電所が事故を起こす確率とか、飛行機が落ちる確率というように、日頃、確率という言葉をよく使っていますが、こういう場合の確率というのは、統計上の比較をしているだけで、確率の話ではないというふうに理解すればいいのでしょうか。

楠岡:現代の統計学では、確率が存在しない限り、統計にはなりません。問題は、確率論の問題であるかどうかということです。サイコロの目が出る確率というような話は単純に受け入れることができますが、そもそも、原子炉の事故が起こる確率とは何ぞやということになります。

先程の例のように、日食が起こる確率は無いけれども、天気の確率は考えてもいいというのは、ラプラスが言うところの無知の反映かもしれないわけですね。同じように、原子炉で事故が起こる確率と言うときに、単に無知でそういうことを言っているのか、あるいは、実際に確率というものはあるのかということです。

経済の方は、主観確率を非常に肯定的に捉えています。たとえば、投資をするときに、それがどれくらい起こるかということを判定していかなければいけません。そのときには、日食が起こる確率だって、それは商売になるかもしれないわけです。無知の結果かもしれませんが、皆が無知であれば、そこに確率が存在してもおかしくありませんね。我々は、経済現象を、ある程度、確率現象だと思っておりますが、実際には確率現象ではないかもしれないわけです。だけど、人々の営みの中で不確実だと思っている以上、そこに確率というものを積極的に考えていきましょうというのが、経済学のほうの立場です。

>>> 確率を神様が決めたように思っているヨーロッパなどの国の数学者と、そうでない日本のような国の数学者では、数学の考え方に、何らかの違いはあるのでしょうか。


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