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講師: |
池内了(いけうち・さとる) |
日時: |
2011年2月21日 |
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世界はパラドックス「レトリックのパラドックス」 |
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L: 適者生存と盛者必滅(必衰?)はどちらも正しくて、互いにパラドックスの関係にありますね.
三井: 生と死はパラドックスだというのは、確か、生物のパラドックスで出ましたね.
池内: 適者生存というのは、環境に一番適応したものは勝っていくということになりますが、勝ち続けていくものは必ず滅ぶという意味ではパラドックスですね.
三井: しかし、勝っても負けても死ぬわけですね(笑).
池内: それは種としての話で、個ではありません.
三井: ここで、再び、アンブローズ・ビアスに助けてもらうことにします.この『悪魔の辞典』の中に、「過去」という項目があったのです.そこに、「過去は昨日の未来であり、未来は明日の過去なのであって、結局、両者は同一のもの」とあったのですが、これは詭弁ですか.詭弁とパラドックスの区別はどこでつけたらよいのか、今回、私は、それが非常に疑問でした.
池内: 詭弁の中にパラドックスが、パラドックスの中に詭弁があります.ゼノンのパラドックスは詭弁だと言われていますね.
三井: そうすると、トマソンのランプもそうなりますか.では、今の、過去と未来が同じことになるというのは、詭弁ですか.
池内: 詭弁ではないと思います.時間軸を少しずらせば、必ずそうなるのではありませんか.
三井: どちらを向いて見るかということだけですか.
池内: 現在というのはほんの一瞬だから、必ず過去と未来が接する場所なのですね.
三井: どこからが過去でどこからが未来だとは言えないということですか.
池内: 一瞬の現在を切り取って、現在と言うことはできるけれども、現在は移ろいやすいですからね.時間軸をとっていけば、いくらでも移り行き変化するということではないかと思います.時間論の中には、「時間はない」という論理学もあるのですよ.
三井: 『時間とは何か』というブルーバックスのご本も書いていらっしゃいますね.
池内: 本当は、その本に取り上げるべきだったのですが、難しいから取り上げなかったのです.
三井: 私も読みましたけれど、そういうことは書いてなかったと今思ったところです.
先程、「3人殺せば殺人者、300人殺せば英雄」というお話をしてくださいましたが、『悪魔の辞典』にも「殺人」という項目があって、「1人の人間が他の1人の人間のために殺されること」と定義されています.更に、「殺人には4種類ある.すなわち、凶悪な殺人、恕すべき殺人、正当と認め得る殺人、称賛に値する殺人、この4種類である.だが、どの種類に属しようと、殺される当人にとっては大きな問題ではない──かような分類は専ら法律家の便宜のために設けられているのである」.これは単なる皮肉でしょうか.
池内: それは真実かもしれないね.(笑)
三井: これこそレトリックですね.
池内: そうですね.素晴らしいですね.
三井: 真実を言っているわけですから、パラドックスではないですね.『悪魔の辞典』を読んでいると、頭がおかしくなります.
池内: どの問題に対しても、「これはパラドックスではないかしら」と考えるようになるのが、私の話の効用であると思っています.(笑)
三井: ビアスという人は、編集者に対して、非常に恨みをもっていたみたいですね.辞書編纂者という項目があるのですが、これはまたかなりブラックです.「ある一つの言語の発達史上のある特定の段階を記述すると称して、実はできるだけのことをしてその成長を妨げ、柔軟性を硬直させ、その体系を機械的なものにしようとする有害な野郎」と決めつけています.さらに、「現に、世にいわゆる辞書編纂者なる者は、本来の務めが、掟を設けることにはなく、単に記録にとどめるというだけにあるにもかかわらず、ひとたび辞書を作りおえると、権威を持つ者と見なされるに至る.すなわち、人間の悟性は、元来盲従する性質を有するところから、辞書編纂者には一種の司法権があると思いこんで、自らその有する理性を働かせる権利を放棄して、あたかもそれが法令ででもあるかのように、一つの記録をそのまま甘んじて受け入れる.したがって(一例を挙げれば)、辞書がひとたび何かあるすぐれた単語に、「廃語」とか、「ほぼ廃語」とかいった刻印を押したら最後、それからというものは、どれほどその単語を必要としようと、また、元通り一般の用語に復活することがどれほど望ましく思えようと、あえてその単語を使おうとする者は、ほとんどまったくいなくなってしまう」という具合に、延々と続きます.
池内: 恨みがあったのでしょうね.
J: 『悪魔の辞典』には、物理学者の項目もあるのですか.
池内: それはなかったと思いますね.
三井: 最後に、今日の結論みたいなことを用意してきました.これも池内さんのお書きになったものを拝借しています.家の中をかき回していたら、どういうわけか、2007年3月14日の毎日新聞の切り抜きが出てきました.それは、理系白書の「科学と非科学、私の提言より」と題した記事で、池内さんが、「いろいろなことを詮議せずに受け入れ、無条件に信じることに慣れてしまう.疑うことはエネルギーが要る.与えられた情報に簡単に同意せず、批判的に考えてみることが正しい判断や選択につながる」と仰っています.このようなパラドックスの話をやるなんてことは考えてもいないときに、なぜ、この切り抜きをとっていたのか.でも、これはパラドックスではありませんね.
池内: 違いますね.それは、『擬似科学入門』に書いた考え方です.
三井: それから、もう一つ、読売新聞の書評欄で、丸谷才一さんが「きことわ」について書いていらっしゃったのですが、養老孟司さんが「女の一生は同じ調子のもので、女達は男と違ってのっぺらぼうな人生を生きている」と言っているので、丸谷さんはビックリなさったのだそうです.そこで、それを吉行淳之介さんに話されたら、吉行淳之介さんは、ほとんど襟を正すようにして、「その人は実によく女を知っている」と褒めたと言うのです.
私は、これってものすごくパラドックスだと思うのです.あるいは、レトリックなのかもしれません.科学的な事実として、女というのはホルモンに翻弄されて一生を過ごすわけです.女の一生というお芝居もあるように、のっぺらぼうな一生だとはとても思えませんので、女の方にも男の方にも、ご意見を伺いたいところなのですけれど.
池内: それこそ、皆さんが聞いているところで、大っぴらに言えないのではないかな(笑).むしろ、後でやったほうがいいのではないかと思います.
三井: では、後の二次会でどうぞということで、お終いにします.(拍手)
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