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第33回レポート
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第33回リーフレット

第33回 カフェ・デ・サイエンス


講師:  池内了(いけうち・さとる)
日時:  2011年2月21日



世界はパラドックス「レトリックのパラドックス」 BACK NEXT

ユーモア作家と呼ばれている何人かの人達が使っているレトリックのパラドックスを少しだけピックアップしてみましたが、ユーモア作家というのは、本来、最も辛辣に、社会あるいは人間を見ている存在かもしれませんね.それをそのまま深刻に書くことはできないから、ユーモアに包んで書いていると言えなくもないという気がしています.以上が、私の報告です.

三井: ありがとうございます.今日のテーマは科学と関係なさそうなので、どういうふうに科学と関係付けるかということで、いろんな本を読み漁りました.レトリックというのは言葉の綾ということですが、そもそも科学に言葉の綾ということがあるのでしょうか.そう思いながら読んでいたら、これはレトリックかもしれないと思われる例を一つ見つけました.

あるがんの手術で、10%は不成功、90%が成功という事実があったとします.ところが、お医者さんが、90%は成功しますが、10%は成功しないかもしれませんと言うと、手術を希望する人の割合がものすごく変わるというのです.これはレトリックだと思うのですが、真実ですから、パラドックスではありませんね.このように、科学の場合でも、実験結果をどのように表現するかによって、真実ではあっても、受け取るほうが取り違える可能性があるのではないかと思いました.

それから、先程、池内さんが挙げてくださったことわざの中に、「急がば回れ」というのがありましたが、元はラテン語で、「ゆっくり急げ(Festina lente)」というのがあったそうです.他にも、いろいろなことわざがありますが、「藍は藍より出でて藍より青し」というのは、どうなのでしょうか.皆さんの中に、「転石苔生さず」というのを挙げてくださった方がいましたけれど、これは真実ですから、何でもありませんね.「情けは人のためならず」というのは、池内さんのお話に出てきた利他的な人間関係に通じるのでしょうか.他にも、これは悪魔の辞典的ですが、「止まった時計は、1日に2度正確な時を示すが役に立たない.ところが、普通に動いている時計は多少不正確でも一応役に立つ」というのはどうでしょう.

ユーモア作家が優れたレトリックの名手だというお話がありましたけれど、「小説家というのは、嘘をつけばつくほど、しかも上手く嘘をつけばつくほど評価が高い」と書いている人がいました.子どもには、嘘をついてはいけないと教えるわけですが、これはレトリックのパラドックスでしょうか.

A: 今挙げたいろいろな例を、どういうふうに捉えて、レトリックやパラドックスについての議論をしようとしているのか分かりません.

三井: いろいろなレトリックのパラドックスになる例を取り上げて、これは考え方がおかしいのか、あるいは、前提が間違っているのかというようなことを皆で考えてみようと言っているわけです.

池内: 前から言っていますが、ここで何か結論を出して、これを明確にしようというような話ではありません.

三井: それは正にこのカフェ・デ・サイエンスの精神なのです.今日は何の話だったのだろうと思う方があるかもしれませんが、そこが良いところだと思ってやっていますから、どうぞ、遠慮なく発言なさってください.初めていらした方はお話になり難いかもしれませんけれど、間違ったことを言ったところで、大した問題ではありませんし、それこそ、レトリックかもしれませんから.

池内: そうそう.

B: 先程のお話にあった風刺作家は、いずれも昔の方々でしたが、現在のアメリカで、風刺を効かせた活動をしている二人を知っています.ブッシュ政権だった頃、ブッシュ退陣というニューヨーク・タイムズの偽の号外を配ったりしました.また、ある時には、貧しい国々における食糧不足に対処するため、彼らが国際シンポジウムを開催し、そこに集まった企業や国の代表者と協議した結果、金持ち達の排泄物をマクドナルド・ハンバーガーに加工して配るという結論に達しましたと発表するなど、風刺の精神は今も生きていると感じました.

池内: 僕はクラシックしか知りませんので、そのような新しい話を聞かせてもらうと参考になります.

C: ある生物が、特定の環境で過剰な適応をしていると、少し環境が変わっただけで全滅してしまうというのは、パラドックスだと言えるでしょうか.

池内: 生命活動において、それは自然に起こることで、パラドックスではないと思います.ダーウィンの自然淘汰説では、環境の変化に適応して生き残ったものが現在の生物ですね.これ迄に環境の変化に適応できなくて絶滅したものが続々とあるわけです.

三井: 今の適応のお話は、精密機械のようになってしまうと非常に壊れやすくなるという例だと考えてよろしいのでしょうか.

池内: 生物というのは、余分なものや不要なものをたくさん抱え込んでいるものが本当に素晴らしい.特化してしまうと駄目なのですよ.

D: 昨今のような不景気になると、専門性を生かさないとなかなか食べていけません.無駄と思えるような趣味をたくさんもっている素晴らしい人は、生物として生き残る価値があり、実際に生き残ってきたとすると、今のように、特化しないと生き残れないというのはパラドックスになるのでしょうか.

池内: どの生物も環境にうまく適応しようとして進化してきたというのも事実なのでしょうが、余りにも特化し過ぎると、環境の変化に対し非常に脆い存在になるということも事実です.現代のように変化の激しい時代では、50年、あるいは30年で時代遅れになるということもあり得るわけですから、今の社会においても、余分なものや意味のなさそうなものを幅広く持っていたほうが良いのではないかと思います.会社などの組織にしても、忠実でよくやってくれる人間は確かに便利ですが、時代が変われば役に立たなくなりますから、はぐれ者のような人材を抱え込んでいる組織のほうが強いのではないかと、僕などは無責任に言ってしまいますが、長い時間スケールで見たときに、環境は大きく変化するということではないでしょうか.


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Last modified 2011.03.22 Copyright©2005 The Takeda Foundation. The Official Web Site of The Takeda Foundation.