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講師: |
池内了(いけうち・さとる) |
日時: |
2011年2月21日 |
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世界はパラドックス「レトリックのパラドックス」 |
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宗教家、あるいは道徳家と呼ばれる人達も、巧みにレトリックを使います.「貧しき者は幸いなれ」というキリストの言葉や、「善人猶以て往生を遂ぐ、況や悪人をや」という親鸞(1173-1263)の言葉があります.それから、「色即是空、空即是色」というのも、明らかにレトリックです.「色」というのは実体があることで、「空」というのは何も無いことですが、ここでは、実体があることは「空」であり、「空」であることは実体があると言う.これは正にレトリックのパラドックスではないかと思います.
レトリックには、庶民の知恵から生まれたことわざもあります.「急がば回れ」というのは、急げば急ぐほど遠回りをしたほうが早く目的地に着けるということわざですが、社会的経験から得られた知恵を、単純な言葉で表しています.「石流れ、木の葉沈む」ということわざもありますが、本当は、木の葉が流れて、石が沈むわけです.それを敢えて反対の状況を述べることによって、世の中の不条理さを訴えるわけですね.これは一見してパラドックスですが、不条理というものが、いかに理屈に合わないかということを、非常にうまく表現していると思います.
このように、レトリックの世界にはいろいろな表現方法がありますが、そこから汲み取れるものが、社会に対する批判や風刺のようなものを含んでいて、そこにパラドックス的な要素があるわけです.そうした例の幾つかを紹介したいと思います.
チャップリン(Charles S. Chaplin, 1889-1977)が、1947年につくった「殺人狂時代」という映画があります.その中で、「戦争で何百人も殺した英雄に比べれば、私などは殺人のアマチュアに過ぎない」という名せりふがあります.これを僕の言い方にすれば、「3人殺せば殺人者、300人殺せば英雄」ということになりますが、戦争の不条理さを表している代表的なレトリックのパラドックスです.
スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)は、『ガリバー旅行記』で有名です.『ガリバー旅行記』は、小人国へ行ったり、巨人国へ行ったり、ラピュータという動き回る島や、馬の国に行ったりする子供向けの本ということになっていますが、実は、すごい風刺を効かせた小説です.私は、読売新聞紙上で、この本を読み直してみることを薦めたことがあります.そこに、「現代の学者、政治家、裁判官、それらの人々の可笑しさをもう一度洗い直してみる上でも面白いのではないか」と書いたように思います.
そのスウィフトが、「穏健なる提案」というものをしています.実際の表題は、『アイルランドの貧民の子供達が両親および国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』という非常に長いものです.その提案というのは、アイルランドで生まれた子供達を金持ち達の料理に供するべきであるというもので、全然穏健ではありません.店の前に赤ん坊を並べ、私たちが魚屋で魚を見繕って料理してもらうように、赤ん坊を見繕って料理をしてもらう.そうすれば、夫婦仲が良くなり、商品となる子供を大事に育てるようになり、貧民層が減っていくのだから、良い事ばかりじゃないかというふうに、照れもせず、ブラックなことを、本当に真面目に延々と書いているわけです.それを読む人は、読み進むうちに、ギョッとして、アレッというふうに分かってくる.これこそ正にパラドキシカルな本で、すごいレトリックの本だと思います.
それから、アンブローズ・ビアス(Ambrose G. Bierce, 1842-1913)という人がいます.『悪魔の辞典』を書いたことで有名です.この本では、悪魔が語るいろいろな言葉に対して、ブラック的な定義をしています.例えば、天文台というのは、「天文学者が、先輩諸氏が行った当て推量について、ああではないか、こうではないかと、絶えず憶測を逞しくしている場所」だというふうに書いてあって、そういう感じはなきにしもあらずだと思います.哲学については、「どこからともなく始まり、どこへ行き着くということもない、多くの道からなる一つのルート」.当たっていないこともないでしょう.優柔不断には、「成功の最も重要な要素」とあります.優柔不断とは決めないということですが、決めないという解はただ一つしかありません.何かをする方法はいろいろあります.科学の世界では、AからBへ到達する解をただ一つだけ選びます.つまり、直線で結ぶことが多いわけですが、これは「最小作用の原理」です.なぜか分かりませんが、自然は唯一の解を選んでいるわけで、優柔不断が最良ということになるというわけです.
また、ビアスは、論理学の基礎が、大前提、小前提、断案からなる三段論法であるとして、例えば、大前提で、「60人の者が一緒にやれば、1人でやるよりも、ある一つの仕事を60倍も早くやってのけることができる」とする.60人いれば、1人より60倍能率が上がりますから、これは正しいですね.次に、小前提で、「1人でやると、柱を立てる穴を一つ掘るのに60秒の時間がかかる」.そして結論で、「60人の者が一緒にやれば、同じ穴を掘るのに1秒で足りる」と言います.これは可笑しいですね.大前提の60倍能率が上がるというのは全てのものに適用できるわけではありません.その前条件が必要なのに、知らないふりをして、ぬけぬけとやるわけです.そして、一種のパラドックスに導いているのですが、パラドックスとは言っても、明らかに底が割れているから、すぐにバレてしまいます.しかし、なかなかうまいレトリックを使っていると思います.
『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』で有名なマーク・トウェインもユーモア作家だと言われていて、パラドキシカルとも言える『アーサー王宮廷のヤンキー』という小説を書いています.19世紀の人間が6世紀にタイムスリップするという一種のSF小説です.主人公は19世紀の人間ですから、それなりに新しい科学技術をたくさん知っていて、6世紀の人間はかなり劣っているように見えるわけです.6世紀の世界で様々な力を発揮して伸し上がっていきますが、最後には叛乱を招いて逃げ帰ってしまいます.6世紀の人達は、新しい科学技術を必要としないので、どんどん便利になることを拒否するわけです.我々が科学や技術を使いこなすためには時間が必要であるということを意味しているのだと思いますが、同時に、それらを使いこなすことができない人間の未熟さみたいなものも描かれているのだと思います.こういう解釈は強引かもしれませんが、現代の科学技術に対しても、我々は反省しなければいけないのかもしれません.今、様々な科学や技術が発明され、作られ、広がっていっています.我々は、果たして、それを本当に使いこなしているのだろうか.むしろ、科学や技術に使われているのではなかろうか.そういう懐疑が起こるということは、結局は敗退せざるを得ないというふうになるのかもしれません.
マーク・トウェインは、他にも『人間とは何か』という本を書いています.この本は、老人と若者の対話という格好になっていて、割と真面目な突き詰めた感覚が出ています.老人は、いろいろと世間を見てきた結果として、「人間は利己的なもので、自分を満足させるために、いろいろなことをやっているに過ぎない」と言います.それに対して、若者は、「いや、利他的な行為を行うことにこそ、人間関係に希望がある」と言うのです.利己と利他の対立がずっと続くだけで、結論が書いてあるわけではありませんが、自己言及するときにパラドックスを生ずることがあります.「人間とは何か」という問いは、自分たちは何かということを問いかけているわけで、結論を出すことができないパラドックスになります.
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