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講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)
新井仁之(あらい・ひとし)
日時: 2006年11月8日 |
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数学カフェ 「無限を極める」 |
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>>>小さいときから、無限大とは、 具体的にどのようなイメージなのだろうかと考えていました。無限回の操作を繰り返すという言葉そのものの意味は分かりますが、
無限をどのようにイメージしたらよいのか分かりません。
新井:数学的には、有限回で止まらないものが無限回ということになります。
織田:古典的なアリストテレスの潜在的無限のように、数えていく無限というのは考え易いんですね。
人間はリズムのようなもので把握することができるから。ところが、実無限というのは難しいから、イメージし難いのは仕方ありません。
数学者だって、きちんと言えなかったんです。自分自身に欠陥があるというようなことでは決してありません。
>>>私は、有限の世界で、多孔性の材料を使って仕事をしています。その材料は、一見、フラクタルな立体構造をしていますが、
最終的には、有限の面積があるんです。だから、フラクタルではなくて、フラクタルに近い構造だろうと思っているのですけれど、
現実の世界も、こうした無限を扱う数学の世界を必要とする時代がやってきたのかなと思って・・・。
織田:私が思うには、答えの出るほうが正しい理論です。そういうふうに思えばいい。
ニュートン力学だって正しいかどうか分かりませんよ。理論は、無矛盾かどうかしか分からない。無矛盾の理論が、現実に合っているかどうかというのは、
また別問題です。
>>>先程の選択公理は、物理的にいうと、どちらの仮定が合っているのでしょうか。
織田:それは物理の問題じゃないと思います。自分の頭の中で起こることだから。
新井:先程言いましたように、選択公理を仮定しても矛盾は起こらない。選択公理を仮定しなくても矛盾は起こらない。
物理的にどちらをとるかは分かりませんが、そもそも、無限というものが、物理的に存在するのかどうかということになるんじゃないかと思いますけども。
織田:それで、仮に2種類の数学ができたとして、そこから物理の体系を作りますね。
そのうちの現実に合っているほうの理論が現実に近い。そう思うしかないということです。それは、生物が環境に適応できるかどうかという問題と同じで、
適応できないほうは死んでしまうわけです。それだけの話です。
>>> 二つ質問があります。一つは、十字を抜いていく図形もフラクタルだと思いますが、
あれは、面積がいくつになるのでしょうか。それと、さっき仰った無限のイメージということについて、私も同じ疑問を抱き続けているんですが、
有限回で終らないのが無限だとすると、無限個の壷から一気に無限個の金貨を取り出せるという場合、取り出す行為は一気ですから1回ですよね。
無限回を一気というのは、数学的にどういうことなのでしょうか。
新井:先ず、十字を抜くというとき、十字の幅によっていろいろな面積になります。細めに抜くと、有限で正の値をとりますし、
太めに抜くと、ゼロになってしまいます。
織田:「一気」のほうを説明します。区間[0, 1]に実数があります。その区間から有理数を全部除きます。
有理数は小さい無限だから、それを全部除いても、区間全体には、同じだけの濃度があります。濃度が同じだから、
その二つは1対1に対応しているわけですね。実際には、1対1のペアは、大抵の場合、作れない。具体的な作り方は分からないけど、
濃度は同じだからと、一気に強引に主張してしまうわけです。
新井:話が戻りますけれど、先程、無限個の壷から一気に金貨を全部取り出すという選択公理を仮定しても矛盾は起きない
というふうに言いましたが、選択公理を全く仮定しない論理体系があって、それが矛盾を含んでいるかいないかというのは、未解決です。
これまでの話は、基本になる論理体系が矛盾を含んでいなければ、矛盾を含んでいないと仮定する。そうすると、それに選択公理を加えても矛盾は起きないし、
選択公理の否定を公理として加えても矛盾は起きないということです。
その元になる論理体系、つまり数学の理論は、専門用語で言うと、ツェルメロ=フレンケル(Zermelo-Fraenkel)の公理系といいます。
それが矛盾を含んでいるかいないかというのは分かりません。それは、ツェルメロ=フレンケルの公理系のなかでは、
それが矛盾を含んでいないことを証明できないということも、ゲーデルの不完全性定理で証明されているからです。
つまり、私が、自分は正しいということを、いくら言っても、それは嘘か本当か分からないということです。
織田:幸いに、今迄、我々はそれを使って数学をやってきて、矛盾はしていないけれど、それが矛盾したら、
そこで行き詰まってしまって、みんな滅びてしまうわけです。今のところは、当分、大丈夫。
>>>ゼロが度々でてきますが、ゼロの定義はどうなっているんでしょうか。 隙間を埋めていくというようなイメージだと、無限に小さい極限というような感じになりますが、0-1と言っているときのゼロというのは、
無限小とは違うような気がしますけれど・・・。
三井:ゼロという絶対的なものがあるような・・・。
新井:自然数、つまり、0、1、2、3・・・という数の定義ですが、・・・。
>>>ゼロは自然数ですか。
新井:中学校や高校では、自然数は1から始まるんですが、専門的には0から始まる・・・。
織田:ゼロというのは、人工的に作った数なんですね。何も無いというのは考え難いので、ギリシャの数学にも、
ゼロはありません。吉田洋一さんの「零の発見」という本にも書いてありますが、ゼロはインドの言葉(shunya)で、「空(くう)」を表します。
ゼロは整数とも、実数とも思える数ですけど、その作り方は、有理数から実数を作ったりするのと、原理が違います。ゼロとは、1引く1です(笑)。
何故、ゼロやマイナスの数ができたかと言うと、3引く2のように、大きい数から小さい数を引くことはできますが、2引く3はできない。
それは、平たく言うと、借金を赤字で書くのと、マイナスをつけるのとは同じで、ゼロは、貸し借り無しというわけです。
ゼロやマイナスの数は、自然数があって、それを支えにしてできる数です。そんなものは不自然ではないかと言うかもしれませんが、
1や2という数も抽象化してできる数に過ぎないわけで、リンゴを1個、2個と言っても、りんご一つ一つは実際に違うわけです。
ゼロが、何も無いという「空」を意味すると言ったけど、りんごが一つも無いという事実を抽象化して言ったに過ぎない。
全ては、人間が頭の中で作った構築物なわけです。全ては幻想で、全ては空です(笑)。
三井:マイナスの数を扱うときに、ゼロがないとやり難いからかなと思っていました・・・。
>>> ルベーグ積分があったことによって、実際に世の中で役立った例を紹介して頂けないでしょうか。
新井:結論を言いますと、二十世紀以降に発展した解析学というのは大部分、ルベーグ積分を基にしています。
例えば、量子力学の基礎になっているヒルベルト空間の理論というのがありますが、そこに、L2空間というのがあって、
その空間の理論を満足いくように展開するには、リーマン積分では無理で、ルベーグ積分を使わないとできません。
いろいろな偏微分方程式を解くときにも、非線形偏微分方程式になると、数値解はともかく、
特定のはっきりとした数式で記述できる解を求めるということはほとんどできなくなります。それで数学では、存在とか、解がいくつあるかとか、
一義性あるいは、解の滑らかさとかなどを議論するんですが、そういう議論もルベーグ積分に基づいて初めて厳密にできるようになっています。
それから、確率論もルベーグ積分に基づいています。二十世紀の始めに、ロシアのコルモゴロフ(Andrey
Kolmogorov, 1903-1987)という人が、 ルベーグ積分、正確にはそれを抽象化した測度論・積分論を基にした確率論の公理系を考えています。
現代ではこの抽象化した理論も含めてルベーグ積分と呼んでいます。それに基づいて確率論が発展しました。
確率微分方程式とか、今年8月にガウス賞をとった伊藤清先生の確率積分の理論とか、そういうのは全て、ルベーク積分を基にしてできています。
だから、現代の数学では、基本中の基本になっていて、大学の数学科でも、多くの大学で必修科目になっています。
織田:学生が単位を落とすから要らないという先生もいます。ルベーグ積分を使った解析というのは、
電子部品のようなもので、下支えしているけど、製品の中では、隠れていて見えない。隠れているから、多分、数学者以外には見えない。
しかし、それがないと、いろいろなものが作れない。そういう原理的なものです。
三井:今日のテーマの一番肝心のところに落ち着いたような気がします。次回は、12月11日の月曜日で、
テーマが、正に「確率論とその応用」になります。今日のお話に繋がるのでしょうか。
織田:次回は、私の同僚の楠岡というのを連れてきますけども、ルベーグ積分の話はあまりしないと思いますね。
皆さんが全員単位を落とすと困るので(笑)。今日は積分の話ができたので、確率というのは積分であるということだけ、頭の中に置いといて下さい。
たとえは、ある線の上に針を落としたときに、線と交わる回数(Buffonの針)とか、ある図形の上にどれだけ頻繁に点が落ちるかというのを面積で測るわけです。
三井:ありがとうございました。では、今日はこれでお終いにします(拍手)。
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