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講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)
新井仁之(あらい・ひとし)
日時: 2006年11月8日 |
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数学カフェ 「無限を極める」 |
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三井:有り難うございます。次に、新井さんにお願いしたいと思いますけれど、 その前に、新井さんがお書きになった本をご紹介します。「ルベーグ積分講義
- ルベーグ積分と面積0の不思議な図形たち」です。 これは2003年に初めて出て、もう今年で五刷までいっていますから、すごく売れている本だと思います。
初めのほうを見たら、割合に易しく書いてあるような感じがしたので買ってしまいましたけれど、やっぱり難しいです。
お回ししますので、どうぞご覧になってみて下さい。
それでは、新井さんに、「無限を極める」というテーマで、面積から入ると仰っていますけれど、そのへんのところを分かり易く説明しながら、
ご自分の紹介も兼ねて、15分くらいでお願いします。
新井:東京大学の新井でございます。研究室が、たまたま織田孝幸先生の隣であるという理由から、今回のお誘いがあったのだと思います。
「無限を極める」ということで、先ず、面積ということですが、面積を考えるときに、面積は、三角形とか円のような図形の面積ですから、
図形というのは何かというのを、先ず考えないといけません。図形の定義ですね。数学の場合、「図形は平面上の点からなる集合」というふうに定義しますが、
平面とは何か。我々が認識する平面というのがありますけれど、数学では、X軸とY軸があるとき、X軸が1で、Y軸が2の点というふうに、
2組の実数値で表されるわけです。そうすると、今度は、実数とは何だろうということを考えなければいけないんですね。これを考えると泥沼に入ります(笑)。
実は、実数が定義されたのは19世紀に入ってからのことで、岩波文庫から、「数について
- 連続性と数の本質」という、デーデキント (Richard Dedekind, 1831-1916)という人の書いた本がでています。これに定義が書いてありますので、
興味がある方はお読みになってみて下さい。
では、実数というのが何かということは、直感的に分かっているとして、そこから無限が始まるんですが、ここで、無限について、
三つの疑問を投げかけたいと思います。これは、ここで答を出して頂くという類いのものではなくて、これから、どういうことを考えてゆくかというものです。
先ず、良く言われていることですが、0.9999・・・と9が永遠に続いていくと、それが1になると言われていますが、それは本当かどうか。
次の疑問は、例えば、小学校などで、女の子と男の子がペアを組んでダンスをするときに、男の子の数と女の子の数が同じだと、皆が1対1のペアを組めますね。
でも、男の子の数が一人多いと、ペアを組めない男の子が一人余ってしまいます。たいてい、私なんですけど・・・(笑)。
ここで、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10・・・という自然数全体からなるグループを作ります。
それから、それに0を加えた、0、1、2、3、4、5、6・・・というグループを作ります。そして、0と1、1と2をペアにする。
一般に、nとn+1をペアにしていくと、もれなくペアができます。でも、一つのグループは、明らかに0が一個だけ多いんですよね。
何故こういうことが起こるのかというのが、二番目の疑問です。
もう一つは、例えば、神様が1枚ずつ金貨の入った無限個の壷を用意したとします。皆さんは、その金貨を全て取り出すことができるでしょうか。
物理的には、勿論、不可能ですね。金貨を一枚取るのに1秒かかるとしたら、死ぬまでに全部取れきれません。
つまり、思考上で、無限個ある壷の中から全部の金貨を取り出せるかどうかという問題です。
それで、面積が、今の問題とどう関係しているかということが、それは議論しながら、だんだんと説明していきたいと思います。
無限というのは、このように分かったような分からないような感じのものですが、皆さんは、無限について、どのようにお考えでしょうか。
>>>金貨を無限に取り出せるかどうかということは、「取り出す」という行為で考えるのではなく、金貨の入った壷が無限にある、
つまり、集合という概念で捉えないといけないということですね。
新井:金貨を一枚ずつ取っていくには、確かに、時間も無限に必要ですし、エネルギーも無限に必要です。
そういうことではなくて、頭の中で考えたときに、無限個の壷の中から、一斉に瞬時に、
金貨を全部取り出すことができるという考え方が間違っているかどうかということです。
織田:要するに、そういうことを、人間は合理的に思考できるかどうかということです。そういうことができないという立場は、
数学者の中でもあり得るのです。これは面白い疑問です。他の二つの疑問とは、少し性格が違うと思います。
>>>私が神様の入れた金貨を取り出すとしたら、無限の人を雇って、瞬時にして取り出すと思うんですけど。
三井:頭の中で考えれば、そういうことですね。
>>> 最後の問題は、大学で最初に習ったε-δ論法を思い出しました。無限というのは、どれほど小さな領域を考えても、
必ず残っているものがあることだと習った記憶がありまして、それから考えると、金貨を全部取り出せるということは、残りがなくなるわけで、
無限個入っていることと矛盾します。だから、取り出せないというのが、無限に金貨が入っているという意味なのではないかと思った次第です。
>>>部分が全体になるというパラドックスがあるんじゃないかと思うんですがね。溶液に溶けているものには、
密度という概念があって、部分的に取り出しても、その中に粒子は無限にありますよね。そもそも、無限と言うと、
部分が全体を占めるということで矛盾してくるような感じがしてくるんですが・・・。
織田:今、非常に良いことを言われたと思います。部分が全体に等しいというのは、実は、無限集合の特徴的な性質です。
ガリレオの『新科学対話』の中で、シンプリーチョ(Simplicio)とサルビアティ(Salviati)という架空の人物が、
平方数と自然数とどちらがたくさんあるかという議論をしているんです。シンプリーチョは、ユークリッドの『原論』に
「部分は全体より必ず小さい」と書いてあるし、平方数は自然数の一部だから、平方数のほうが少ないに決まっていると言うわけです。
サルビアティのほうは、ある数と、その二乗数が1対1に対応しているのだから、どちらも同じだけあると言う。二人は論争をしていて、決着がつかない。
結局、ガリレオは、どちらが正しいとも言っていないんですね。その後、集合論で無限集合の話が出てくると、それが無限集合の特徴的な性質で、
無限集合は必ずそういうふうになっていると。有限だったら、部分と全体が1対1に対応するということはない。
面積のこととはちょっと別なんですけど、これは、無限のものを、ある意味で、直に数えようとしている。
それと、アリストテレスからの哲学の考え方ですが、潜在的無限といって、一つ二つと数えながら行く無限があります。途中は全て有限ですが、
数えきれないという意味での無限です。人間には、そういうものを理解する能力がある。実は、それとは違った大きな無限があります。
実数を数えて、数えきれないという無限で、実無限といいます。これは難しいので、なかなか正式には扱えなかった。
数学の長い歴史の中で初めて扱えるようになったのは、今から、百数十年前のことです。きちんといろいろな言葉を定義して、きちんと話を展開していって、
それで矛盾がでてこないようにできたのは、随分最近のことなんです。
三井:数学者というのは、いろいろな定義を作って都合のいいようにするというふうにとれたんですけど・・・(笑)。
新井:そうかもしれませんが、無闇矢鱈と定義をしているわけではなくて、 いろいろなことが説明できるように定義をしているとも言えますね。無限ということでは、平方数と自然数が1対1に対応するとき、
二つの集合の無限は同じ個数であると定義するわけです。数学的には、同じ濃度であるといいます。先に言った、1、2、3、4、5、6・・・というのと、
0、1、2、3、4、5、6・・・というのは、どう考えても、0が1個多いから、 0、1、2、3、4、5、6・・・のほうが大きいんじゃないかと思ってしまいますが、
数学では、1対1に対応したら、同じ個数だと思いなさいということなんですね。それで納得できるかどうかということなんですがね。
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