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講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)、川原秀城(かわはら・ひでき)
日時: 2006年6月29日 |
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数学カフェ 「東アジアの数学」 |
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三井: 皆さんの間で、随分盛り上がっているようですけれど、少し易しいお話にしましょう。
私達は、小学校の時に鶴亀算を習うぐらいで、専ら西洋数学というものを習ってきますね。どうしてそうなってしまったのか。東洋の数学は消えてしまったのか。
そういうことを話題にしたいと思いますが、いかがでしょう。
川原: なぜ、東アジアの数学が消滅したのか。それは簡単です。明治政府がそれを排除したからです。
なぜ排除したのかというと、和算家の連中が、「自分の数学は世界一だ」などと、自信を持っていたからです。
科学のシステムというのは、一部だけ"いいとこどり"することはできないんですね。システム全体として、こちらをやるか、あちらをやるか。
そこで明治政府は、「和算なんていらん」と判断したわけです。私のように東アジア数学をやっている人間でも、これは正しかったと思います。
そうしなかったら、近代化には遅れたと思います。とにかく、明治政府のお偉いさんが、法律をつくって、和算を勉強している人は生活できないようにしたからです。
具体的には、和算をやっている人は小学校や中学校の教官に採用しないで、西洋数学をやっている人のみを採用しました。
そのようなわけで、日本の数学界は現在においても(?)数学史を学問として認めません。「過去と決別すること」が日本数学界の持っていた社会的要請で、
それを実践してきたからです。従って、日本で数学史を勉強した人には陽が当たらないと決まっておりました。
個人的な話をしますと、私も最初、東アジアの数学史を本気で勉強しようかしまいかと悩んでいたとき、辞めようと何度も思いました。
三上義夫という数学史の偉大な学者がおり、スミス(David Eugene Smith)という数学史家と一緒に英語の本を書いていますが、
日本では博士号ももらえず云々侃々ということを知っていましたので、数学史はやりたくなかったのです。
でも、「数学が好きだ」という気持ちが勝ちまして、趣味として、延々とやり続けております。あまり学問としてやらなかったおかげで、この30年近く、
かなりの数の数学書を楽しみながら読んできました。論文もたいして書きたいと思ったことはないですね。
織田: 今、川原先生が、和算が滅びた理由を説明されましたけど、滅んだのは、和算だけではありません。
平仮名のシステムも変わりました。寺子屋の先生の書体は、ほとんどが"御家流"でした。江戸幕府で、法律などを書いた高札の書体が御家流です。
この字体は、たぶん、皆さんはほとんど読めませんが、江戸時代の人は皆読めました。平仮名は今と少し違って、変体仮名といいます。
今でも、年取った方で、一部読むことができる方はいますけど、私は全然駄目です。歴史学の教育を受けないと、読めるようにはなりません。
それは、和算が滅びた理由と同じで、明治政府が御家流を廃止して、現代の平仮名にしたからです。
先程、和算と日本数学界の関係を話されましたけど、日本の数学界は、和算の伝統を、基本的には大切にしたいと思っていると思います。
"関孝和賞"という賞がございます。滅多にもらえない、重要な賞であります。もう一つは、"ベルヌーイ数"に関するものがあります。
ベルヌーイ(Jakob Bernoulli)はオイラー(Leonhard Euler)の先生にあたる人です。関さんも、ベルヌーイ数と同じ数を、同じような時に、
同じくらい研究していました。日本人の数学者は、国際研究集会なんかがありますと、関さんがベルヌーイと同じことを独立して発見していたと言い広めてきました。
また、本や論文でも、"ベルヌーイ・関数"とか"関・ベルヌーイ数"と書いて、関さんの功績を讃えようとしております。
川原: 実に有り難い話です。先の日本人の数学的センスについてですが、和算は滅びました。
しかし、外の面は滅んでも、やはり、頭の中には残っています。江戸期、もしくは、それよりずっと前から、数学というものを重視してきたからです。
今、インドから有能な数学者達が数多く出ています。コンピュータ関係では、インド技術者が世界を動かしていますね。
これも、やはり、数学の重要性がインド文化になっている。同じように、我々にも、数学を好む血というのが滲み込んでいると思います。
和算は、学問至上主義で、それによって儲ける気もない。ただ数学のためにだけ楽しんできたという、ある意味で、ヨーロッパの伝統よりも健全なものが、
文化の中に、そして、身体の中に滲み込んでいる。"九九"というものを根底にして育まれた数学好き。そういうもののおかげで、
日本は優秀な数学者を輩出しているのだろうと思います。具体的なところは分かりませんが、深い影響を及ぼしていると思います。
合理のみを価値基準として、単一の文化になっている社会というのは、すぐ滅んでしまいます。相互に矛盾する多様な事象を認めながら、
少数派のマイナス要因を排除せず、包み込むような社会というのは、非常に有能な社会だと思います。たとえば、ソ連のように、
五カ年計画で皆同じ方向へ進めば、一時はすごい勢いで発展しますが、すぐずっこけてしまいましたね。和算は高等数学ばかりではなく、
お遊びの面まで含んでおります。遊びも含んだ文化総体としての数学が、いろんな形で影響を及ぼしながら数学のセンスを刺激し、
それが未来の数学者を作り上げているのではないかと想像しています。このへんは、私の単なる思い込みもあります。
>>> 私は文系ですので、変なことを言って脱線するかもしれませんが、江戸時代の三浦梅園という哲学者が、
「枯れ木に花咲くことより、生木に花咲くことに驚きにけり」と言っています。枯れ木に花が咲くよりも、
目の前にある花が咲くことに驚きを感じようということですが、日本人が持っている"目に見えないものを感じるセンス"は、
春夏秋冬という四季があったからこそ備わったもので、そこから、自然の神秘や数学を追究する心が生まれたのではないかと思うんですよ。
だから、数学も芸術ではないかと思っています。たとえば、目の前の花がどうして咲くかを知ることが、一つの数式になったりするのではないか。
それは、文系の人が、たった一行の俳句を考えるときと同じではないかと思います。オーケストラに例えると、使う楽器がトロンボーンであったり、
バイオリンであったりするだけで、やっていることは一つのアート、すなわち、オーケストラとしての合奏だと思うんですね。
だから、自然への憧れや、美しさを感じるセンスがある限りは、日本の数学もすごく美しいものだと思っています。
結局、何が言いたいかというと、「先生の中に数学へのロマンはありますか」ということなんですが。
織田: 今の質問は文学部的な質問ですね。
三井: もう一人、数学者が来ていらっしゃるということで、こちらに振ろうかと思います。
数学者: 今仰ったこと、そうだと思うんですよ。数学は、関孝和がすごく発展させましたけど、"遺題継承"という、
沢口一之が出した問題を解こうと思って、新しい数学を発展させたわけですよね。私自身についても、小さい頃、問題を解くことが好きだったというところから、
今日、数学をやっていると思います。小さい頃は、計算問題や、ちょっとした文章問題だけですが、大学レベルになってくると、
(理論の美しさに惹かれ)理論を作るというようなことが面白くなってきたと思います。
ついでに、和算が滅んだあたりの話ですが、私が思っていることを言いますと、明治政府は、確かに、洋算にすると宣言しましたけれど、半年くらいで、
それでは立ち行かないということが分かり、ソロバンでやることにしてもよいというように布告し直しているんですね。
先程、和算家を全部失職させるというお話がありましたが、実際に教育にあたった人は、ほとんど和算家だった。
そういう人達が、ソロバンを使ったりしながら、洋算を普及させていったわけです。物理のようなものをしっかりと取り入れるためには、
洋算のシステムで書かれたもので勉強して紹介しなければ立ち行かなかったので、洋算側に移行したということです。
和算で使われた記号のようなものは失われたけれども、思考形態のようなものは決して失われていない。脈々と続いている。そういうことだと思います。
<参考:明治5年8月学制発布、同9月「小学教則」公布、明治6年2月「下等小学教則」創定、同年5月改正等。
文部科学省の学制百年史
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_026.html >
それから、鶴亀算がよく出てきますけれど、鶴亀算というものになったのは、坂部広胖という人が1800年代に書いた本(『算法点竄指南録』、文化12年、1815年)が出てからです。
それ以前は、ウサギ、雉などが対象になっていて、『孫子算経』が出た頃(成立年代ははっきりしていない)からある問題です。
鶴亀算というのは、連立方程式で普通に計算するところを、早めに式変形してしまうもので、和算特有のものではないと思います。
三井: 私は昭和の人間ですけど、小学校の5年生か6年生のときに、鶴亀算をやったんですね。
あれは、数学的にモノを考えることに役立つから教育に取り入れたのでしょうね。
川原: 先程の数学と芸術の近似性という話に立ち戻りますが、数学者の中には、いろんなタイプの人がいて、
芸術家と変わらないような人もゴロゴロ居るんですね。そういうことから言えば、非常に親近性があるような気がします。
大学には"文理学部"という学部がありますね。
織田: 昔はたくさんあったけど、ほとんど廃止されていますね。
川原: 私は、文学部と理学部に、非常に親近感があるというか、違和感がないというか。
織田: 事務職員に言わせれば、一番やりにくい学部だそうです。
最初の質問で、理系の人が、なぜ、日本の社会で重んじられていないかという話がありましたが、これについては、数学者もけっこう疑問に思っています。
司馬遷の『史記』に、列伝というのがあります。そこに、技芸団の手品師とか、数学がよくできる人の伝記が書かれています。
ところが、日本の公式の歴史には、ほとんど書かれていない。日本では、このように非常に冷たい扱いを受けていますから、中国は、まだましだと言われております。
「それではならじ」ということで、新田次郎という作家が、短編集(『梅雨将軍信長』)を書いています。その中には、江戸時代に、
グライダーに近いものを世界で最初に飛ばした人の話があります。この本は、藤原正彦さん(父親が新田次郎)にもらいました。
藤原正彦氏は、何かのエッセイで、「数学者は自然の美しいところに生まれる」と書いています。僕も行ってきたんですが、
インドのマドラスなどはゴミゴミしていて、あんな汚い所で、どうして立派な数学者が生まれるのだろうと思いますが、インドでも、たとえば、
お釈迦様がかって歩いたような所はすごくきれいなんだそうです。ですから、原風景、つまり、心の中の元になるような風景に、
そういう美しいところが無いと駄目なんじゃないかという意見には、私も田舎育ちなもので、賛成したい。
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