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講師: 織田孝幸(おだ・たかゆき)、川原秀城(かわはら・ひでき)
日時: 2006年6月29日 |
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数学カフェ 「東アジアの数学」 |
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>>> 明の時代には、鄭和という有名な人がいますが、彼はイスラム教徒ですね。
イスラム教徒だということは、おそらく、宋・元の時代に、南のルートで来た貿易商人の子孫か何かだと思われます。ですから、中国人の名前を名乗っていても、
中国人じゃなかったかもしれませんね。
川原: 学者や研究者という類は、与えられた資料や条件を前提として、そこから一番問題の少ない、
いわゆる合理的な結論を出そうとします。発想法自体が非常に限定的なわけです(学問とはある意味、自由な発想が許されない世界です)。
そこには、与えられた条件にもとづいて、可能性の低いものを排除するということも含まれております。
可能性がないとは言えませんが、ほとんどないと思います。(笑)
>>> 数学者が数学をする動機というのを伺ってみたいと思います。先程、暇だからというのがありましたけれど。
川原: 時代ごとにいろんなことが言えると思うんですが、宋元数学のときは、官僚になれない不遇の人達は、
数学教育で飯を食っていたわけです。そのためには、人を集めなければいけません。そうしたときには、良い数学書を出したいと強く願ったと思います。
李氏朝鮮の時代、数学者というのは、"ヤンパン(両班)"よりも社会的地位が低い"中人"の人達で、特殊な階級をつくっていました。
中人には、医者、数学者、占い師、通訳官などがいました。
織田: 「チャングムの誓い」のチャングムも中人。だけど、あれは親がヤンパンなんだね。
川原: 実は、朝鮮朝時代の一番のお金持ちは中人でした。医者というのは、チャングムでもご存知のように、
王様を治すと、それだけでご褒美をいただけますね。もちろん、治さなかったら、殺されたでしょうけども、お金持ちになれたような仕事だっただろうと思います。
朝鮮朝では通訳官が一番お金持ちになるんです。日本や中国に付いて行って、そこで闇貿易をして、とてつもない富を得るわけです。
お金があると、次は何を望みますか。名誉でしょう。しかし、身分を上げようとしても、結婚も制限されるわけで、ヤンパンの連中なんか、
相手にしてくれないわけです。そういう社会で数学をやっている人だったら、良い数学書を書くというような動機はあっただろうと思います。
>>> 朝鮮ではソロバンを排除して、算木に集中していたというのは、算術というのは下賎なものだったからですか。
また、中人というのは、王朝の専属ですか。それとも、庶民なんですか。
川原: 科挙に近いような試験がありまして、試験に受かれば、そういうお金儲けの道があったということです。
ただし、そうした試験を受けるためには、何人かの推薦状が要るわけです。それも、名のある人の推薦状。親族が良くなければ、受験も拒否されます。
つまり、両班中人のシステムは、数少ない特権階級を守るための、非常に閉鎖的なそれということができます。
>>> 僕は、日本語の"文化"というのは非常に変だなと思うことがあります。"文化"というのは、
人間の全ての営為ということですよね。文系、理系という表現は、全ての学問分野を二分するような言い方ですが、全ての学問分野は、
人間の全ての活動に対応していると思うんですよ。ところが、文系の"文"だけを採って、"文化"という人間の営為全体のことを表している。
これは、日本語の"文化"という言葉が、日本の文化が文系にシフトしてきたことを表しているのではないかと、僕は推察するわけです。
先程でてきた"天文学"という言葉なども、"天理学"と呼ぶべきではないかと思いますが、どうでしょうか。
また、今日の和算についてのお話を聞いていると、日本人には、理系文化の資質も大いにあったのではないかと思いますが、先生は、
日本の古い文学的な書物を読んでおられて、科学的センスの萌芽らしいものを感じられたことはありますか。
三井: 皆さんが自覚していらっしゃるかどうか分かりませんが、「日本人は数学が好きな国民だ」と、
むしろ、外国人に言われることがありますね。それと、これは申し込みのときの質問で、「和算が主流にならなかったのはなぜか」というのがありましたけど、
今のご質問と関係があるのではないでしょうか。
川原: 文科系、理科系という分け方は、近現代を特徴づける"モノの感じ方"だろうと思います。
漢文を読んでいますと、"知識人"か否かは、「知識を持っているか、持っていないか」だけが関係します。
つまり、理科系の文章も文科系の文章も共に読む人か、全く読まない人。そこに、文科系と理科系の区別などありません。
もちろん文章を読んでいると、その書き手に文科系のセンスがあるとか、理科系のセンスがあるなどと思うことはありますが……。
たとえば、朱子学の"朱子"ですね。彼は自分でプラネタリウムを作るような人で、哲学ばかりやっていたわけではなく、理科系の学問もちゃんと修めていました。
そういう意味において、理科系と文科系が分かれてくるというのは、近代の学問の性格ではなかろうかと思います。
織田: 中世のリベラル・アーツ(liberal arts)というのは7つありましたね。
あの中には、"算術"と"幾何"という二つの数学が入っていた。他に、音楽もありますね。ですから、実験科学というのは非常に新しいわけです。
その前は、何が正しかったかと言うと、偉い人の言うことが正しかった(笑)。それを疑うようになったのは、かなり最近のことで、せいぜい400年くらい前です。
先程の"文化"というのは、英語では "culture" で、"農業をやる"ということですから、一万年前の農業革命の時代。
"天文学"も、"天文地理"と言えば、"文"と"理"が入っています。
三井: "Doctor of Philosophy"と言うように、昔は、文科も理科もなくて全部一緒だったわけですよね。
川原: ギリシャではね。
三井: この頃の若い方は、名刺に"博士"と書いた後に、括弧して"理学"や"工学"と書くようですね。
川原: 織田先生が"天文地理"と仰ったので、私は嬉しくて、つい口を出したくなりました。
"天文地理"という言葉が最初に出てくるのは『(周)易』(繋辞伝)です。「仰いでは以て天文を観、俯しては以て地理を察す」がそれです。
いわゆる"文"も"理"も筋目、文様のこと。これが原義、"楽しくて古い"原義です。最初に"楽しい"などと言いましたのは、私の気持ちです。
>>> いつ頃のことですか。
川原: 『易』の成立を何時とみるかというのは、また大問題ですが、秦より前、殷と秦の間くらいのどこか
と考えてもよいと思います。数学としては、十進法が完成し、"九九"のシステムができているというようなころの書物でしょう。
中国の戦国時代は、"九九"を知っているというのみで就職できた良い時代でした。正確なことは忘れましたが、春秋か戦国か、その頃の記録に残っています。
日本人の理系センスについてですが、少なくとも和算のことを考えると、ずば抜けていると信じています。明治以降の数学者達がやったレベルアップと、
関孝和たちの和算家がやったレベルアップとでは、どちらが上か分からないくらい、すごいものがあったと思います。
もちろん、明治以降もすごかったと思いますが……。
三井: それは、関孝和という人が天才的だったのですか。それとも、だんだんと環境が育成されてきたということでしょうか。
あるいは、日本人にそういう特性があるというふうに考えたほうがいいのでしょうか。
川原: お好きなように考えて下さい。
>>> 今日は麻雀の話でもお伺いできるのかなと思ってきました。
私は、数学は、おそらくゲームからきているのではないかと想像しています。そこで、ゲーム感覚としての数学について、お伺いしたいと思います。
それと、川原先生の麻雀歴というのは、どのくらいでしょうか。
三井: 相応しい話題がでてきましたね。麻雀と数学の関係ということでしょうか。
川原: 実に野暮ったい答えしかできないのですが、麻雀というのは、 大学の時に2回か3回やっただけで、やり方も知りません。
中国の数学については、『九章算術』が形を定めたわけですが、その特徴は、王朝の管理のための数学だったということです。
"均輸法"というのを聞いたことはないでしょうか。本当は"キンシュホウ"と発音するのが正しいのですが、漢代の税制で、
『九章算術』の一つの章の題目になっています。従って、税金をいくら取るかとか、土地の大きさをどう測るかという類いのものがたくさんあって、
その中に、方程式や三角関数の問題なども入っています。基本的には、お上のための数学です。
織田: 私も、麻雀はあまりやったことはありませんが、碁とか将棋だったら、中学2年生の頃に毎日やっていた時期があります。
将棋や碁を長くやっていると、現実の将棋盤や碁盤がなくても、頭の中で思い浮かべて、やることができます。
それは、数学のトレーニングと似ているところがあります。数学者というのは、頭の中でイメージを動かしているんです。
幾何の人は、頭の中で空間図形などを自由に回転しているのだと思います。私はそれ程じゃないけど、分かります。だから、車のバックはちゃんとできます。
数学の分野にも、将棋の詰め将棋と似たようなところがあります。一つ一つ証明するときのステップです。
詰め将棋では、この手しかないというふうにやりますが、それと同じですね。そういうことを、割と精神集中してやっていることもあります。
ただ、それだけじゃなくて、もっと微妙なところもあります。絵とか音楽のような感じで、最初は言葉にならないけど、あるときパッと、何かのパターンで、
「こういうことはありそうだ」ということがあります。それを突き詰めていくと、大きな論文が書けたりします。
それと別に、いろいろ手を動かして計算して、少しずつ明確になることもありますし、一瞬にして閃くこともあります。
一瞬にして閃くことは、僕の人生でも2回か3回しかありませんでした。そのときだけは、自分は、ひょっとしたら天才ではないかと思います。
後は、一所懸命計算したりなんかして、いろいろなことが分かっていくわけです。
三井: ここで、少し休憩したいと思います。
(休憩)
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