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第29回レポート
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第29回リーフレット

第29回 カフェ・デ・サイエンス


講師:  大島泰郎(おおしま・たいろう)
ゲスト講師:  会田薫子(あいた・かおるこ)
  水谷広(みずたに・ひろし)
日時:  2010年5月31日



異端児のみる生命「生命倫理」 BACK NEXT

刑法学者のなかには尊厳死の法制化を危惧しておられる方もいます.刑法というのは命に対する最終の鉄壁の守りであって、これを変えるようなことはやるべきでないとおっしゃっている方が多いので、恐らく、刑法は変わらないのではないでしょうか.尊厳死法が法律として制定されることについて、懐疑的な法学者が多いのです.ある一定の条件を決めれば尊厳死できますと法律に書いてしまうと、一定の条件ばかりに目が行ってしまい、終末期医療の現場で本当のケアがなされないのではないか、また、本人のための看取りがなされないのではないかと言われているのです.

三井: 法律になってしまうと、全てがそれに従わなければならないということになりますが、倫理観というのは個人によってそれぞれ違うのに、皆が共通した倫理観を持つことはできるのでしょうか.

G: 私は、十年前から、臓器提供意思表示カードを持っています.項目には全て○をして、父の署名ももらいました.こういうものを普及するのは良いことだと思いますが、現状はどうなのでしょうか.

三井: 先日の新聞にそのカードに関する記事がありました.間違ったところに○を付けたりして、無効になることがあるのだそうです.そうすると、家族が判断を迫られるということで問題になっているということでした.

会田: ドナーカードの普及は、本人の意思を示す一つの方法として有効だと思います.脳死というのは、病気にしても事故にしても、突然起こることですから、不幸にして脳死になった方のご家族は、臓器提供が本人の最後の意思だと言われても、そう簡単には決められないでしょうね.ただし、本人のドナーカードがあって、人様のために役立ちたいと思っていたことがはっきりと分かれば、本人の最後の願いを叶えますということになると思います.

ドナーカードは、市役所や保健所などの公共機関、コンビニエンスストアなどに置かれていますから、世の中に出回っている枚数としては、非常にたくさんあるのだそうです.1997年に正式にドナーカードの普及が始まってから13年経って、その数は、ひょっとすると、人口くらいになるのかもしれません(笑).枚数だけは多く出回ってはいますが、持っている人は非常に少ないのです.

実は、私も持っています.私が今日の帰り道に交通事故に遇って脳死になったとしても、私は自分が死んでいるとは思いませんが、私自身の体が、この先、私自身にとって役に立つとは思いませんから、人様のために、私の心臓でも肺でも何でも使ってもらってもかまいません.そのことは家族にも言ってありますので、そのような場合には、家族はそういうふうに決めてくれるだろうと思っています.

現場のドクターに聞いた話でも、例えば、交通事故に遇った人の財布の中からカードが出てきたときには、ご家族の方にそれを示してお話すると、提供しますということになるそうです.もちろん、全ての人がそうなるわけではありません.ところが、ドナーカードが出てこない場合は、医師のほうからはそういう話はしないと言うのです.現場の救急医のなかには、脳死ドナーが出るとその対応のために通常よりもずっと忙しくなるので、カードが出てきて欲しくないと思っている人もいますが、移植で助かる人がいるなら助けたいと思えば、ドナーカードを普及させたほうが良いと思います.

私はドナーカードを持っていて、臓器提供できるときはそれをするつもりでいるのですが、実は、私自身は臓器移植をあまり性質の良い医療だとは思っていません.それは主に、付随する社会的問題が多過ぎるからです.ですから、最終手段として仕方が無い場合はするとしても、やらずに済めばこれほど良いことはないと思っています.だから、臓器移植という医療に諸手を上げて賛成することはありません.ただ、選択肢があるということを知らせて、その選択肢をとる人にチャンスを与えるということでよいと思っています.

臓器移植は良くない側面がたくさんある医療です.心臓のレシピエントにとっては、天からの贈り物みたいなものになることもありますが、この医療があるために、様々な社会的問題がたくさんあるわけです.最もひどいのは、日本にはありませんが、人身売買に関することで、そういう研究もされています.

F: 臓器移植にもいろいろあると思いますが、会田先生は、角膜移植なども含めた全ての移植について今のようにお考えになっているのでしょうか.

会田: 心停止後に提供できる角膜の場合は、あまり問題はないかもしれません.ですが、心停止後に提供可能な臓器でも、腎臓についてはある程度問題があると思います.また、腎臓は2つあるので、海外では生体からの売買もあり、日本人が買いに行くということも行われておりましたので、これも問題です.

H: 普通の倫理感が働いていれば、科学の発達に対してそれほど恐れなくてすむのではないかと思いますが、我々の倫理感は、我々の意識の中でどういうふうに形成されていくものなのでしょうか.

大島: 一つの考え方としては、テクノロジーアセスメントのときをアナロジーとして考えてみるのはどうでしょうか.倫理感というのは、地域によっても時代によっても変わっていくものだということです.

I: 私たちの倫理感というのは、最も多くの人が持っている習慣のようなもので、確かに変わっていきますが、結局、多くの人に受け入れられるようになれば、それで良いということではないでしょうか.

三井: 明るい希望を持ってもよいということですか(笑).

J: 死の対局にあるのは誕生ですが、体外受精とか着床前遺伝子診断といったバイオテクノロジーがもたらす生の問題を、どう捉えていけばよいのでしょうか.

三井: 生殖医療や再生医療というのは非常に進歩しましたから、そうした問題もよく考えなければいけませんね.

水谷: 生きていることと死んでいること自体をきちんと突き詰めておかないと、なかなか難しい問題だと思っています.死に関しては、自分なり家族なりの選択で済むのかもしれませんが、誰を産ませるかということになると、もう少し広い意味での社会的合意みたいなものが必要になってくると思います.

倫理の起源というようなものを考えてみると、農耕を始めた1万年くらい前から、それまでの狩猟採集生活には無かった蓄えができ、財産をつくることができるようになります.そうすると社会構造が複雑になってきますから、社会的な人間関係をうまくつくるために倫理の仕組みができてくるのではないかと思います.農産物は地域ごとに違いますし、状況もいろいろ変わります.それが地域ごとの文化になり、そこから地域ごとの倫理感が出てくるのだろうと思います.

生殖医療の技術はグローバルに使えますが、それを受容する社会の倫理観は地域ごとに違いますから、広範な合意を得られるようにすることは難しいと思います.環境倫理においても、グローバルな温暖化の話を、影響が異なるそれぞれの地域社会において、どのように受容できるのかという問題があります.答えはないけれども、考えるべきことはたくさんあります.

大島: 生殖医療に関する倫理で、答のない難問の一つは、どこからがヒトかということです.誕生したら、誰でもヒトと認めてくれるでしょうが、胎児がヒトなのか、あるいは、受精した段階からヒトなのかという問題があります.その答えは、特定の生物学なり生命科学なりが出すのではなく、いろいろな専門分野の人たちが集まり、知恵を出し合って出すものですから、そう簡単にコンセンサスが出る問題ではありませんが、考える価値のある設問ではないかと思います.

三井: 以前にも、どこから生命と呼べばよいかという議論をしたことがありますが、受精卵から発生していくわけでから、生命は受精した瞬間に生じると考えるべきではないかと思います.

K: ヒトの脳死があるということは、脳ができる前はヒトではないということになりませんか.

大島: 脳がヒトにとって重要であれば、発生の段階で脳が形成されないうちはヒトではないという定義はあり得ると思います.

水谷: 生命科学では、人間と他の生物とは連続的だということになっていますが、従来の人間社会では、人間はチンパンジーやオランウータンとは全然違うものであるという仕切りを立てているわけです.それが余りにも人工的になり過ぎていて無理が出てきているというところがあるのかなと思います.ただし、今の時点では、生物は皆一緒だということにすると、それも却って問題を起こすとは思います.


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Last modified 2010.08.03 Copyright(c)2005 The Takeda Foundation. The Official Web Site of The Takeda Foundation.