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第29回レポート
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第29回リーフレット

第29回 カフェ・デ・サイエンス


講師:  大島泰郎(おおしま・たいろう)
ゲスト講師:  会田薫子(あいた・かおるこ)
  水谷広(みずたに・ひろし)
日時:  2010年5月31日



異端児のみる生命「生命倫理」 BACK NEXT

他にも問題が出てきました.脳死の人は脳機能が失われている人であると定義したのは1980年代ですが、その後、技術が進んでくると、脳死の状態でも脳の機能が完全に失われているわけではないということが分かってきたのです.そこで、今、脳死の再定義が行われています.

アメリカは、大統領委員会を組織して、脳死についての文献を見直し、脳死についてのこれまでの理解が必ずしも適切ではなかったという報告を、2008年の終わり頃に出しました.アメリカという国は、このように、すっかり定着していたものをひっくり返すようなことをすることがあります.私としては、こういう率直なところは尊敬できると思っています.

大統領委員会の報告書の中で、私が、その率直さに最も驚かされたことは、「脳死と呼んできた状態を脳死としたのは間違いであった」と書いてあることでした.そして、「脳死とされてきた状態は、完全脳不全と呼ぶのが適切だ」という用語の変更が提案されています.では、完全脳不全の人が死亡していると言えるのでしょうか.私達の国にも、今の時点で、腎臓や肝臓が完全に不全の人がいらっしゃいますが、死亡しているとは言いませんね.なぜ脳が不全なときだけ死亡していると言うのでしょうか.そういうわけで、脳の完全機能不全を死亡とイコールで結ぶのも変だということになってきています.

頭で理解して心でも納得できるような死というものを、社会でどのように考え、どう理解していけばよいのか.今、正に、皆さんでお話することが必要な時代になっていると思います.

三井: アメリカでは、脳死の状態は変わっていないのに、言葉の定義だけを変えたということですか.

会田: 1980年に出されたアメリカの法律自体は変わっていませんし、法改正の動きも全くありません.脳死概念の理解の齟齬や定義の不適切さはあるけれど、実際に害はないからというアメリカの合理性でしょうか.

三井: 次は、大島さんにお願いしたいと思います.その前に、先日、大島さんから伺ったのですが、今、生命科学を勉強している大学生は、必ず、生命倫理というコースをとらなくてはいけないことになっているそうです.ところが、生命倫理の講義ができる人はなかなかいないので、大島さんはあちこちで引っ張り凧になっているとのことでした.そこで、大島さんには、その講義でどのようなことをお話になっているのか、触りのところだけ、お話していただけるとありがたいのですが.

大島: 私が今日のテーマを選んだのは、無理矢理、生命倫理の講義をさせられているからです(笑).生命科学関係の学部は、文部科学省の方針で、生命倫理に関する教育をすることになっているのですが、新設された学部はどこも、専門家がいないというので困っています.それで、私が担当になったわけですが、やる人がいないもので、他の大学から頼まれることも多いのです.

先ず、何をしたかと言うと、会田先生がいみじくもおっしゃった輸入学習の翻訳状態そのもので、ポッター(Van Rensselaer Potter, 1911-2001)が1970年に書いた『Bioethics: Bridge to the Future』という本をバイブルに見立てて、彼がそこで提唱している「生命倫理」は、生命に関する新しい技術や知識が増えたことを踏まえた上での、人類の永続性のための学問であり、医療や生命に関する工学的な技術、環境、さらに社会学や人文学、そして宗教をも入れた総合的な学問であるということに基礎を置いたカリキュラムを考えました.

そのような講義を一人でできるはずはありませんので、医療倫理、環境倫理、そして技術倫理あるいは研究倫理という3つのテーマに分けて、三人の先生で分担してやってきました.医療倫理は東京大学医学部の先生、環境倫理は生態学の先生にお願いし、私が研究あるいは技術の倫理を担当しました.例えば、原子力からエネルギーを引き出す技術は20世紀の中頃にほぼ完成したわけですが、それを発電に使うかどうかは、国によって、極端に言えば、地域によって決めているわけです.私は、そういうようなことを選択するときの技術的な基盤や、それに伴う倫理を講義しています.

倫理の対象はいろいろあります.例えば、動物実験にはいくつかの規制がありますが、その一つは、なるべく動物に苦痛を与えないような実験を企画することとなっています.これは極めて当たり前のことだと思うでしょうが、こんなに難しいことはありません.なぜなら、動物が何をされたときに嫌だと思うのか、本当のところは、誰にも分からないからです.それから、実験にはなるべく下等生物を使うことというのもあります.イヌ、ネコの代わりに、サカナを使いなさいとか、できれば微生物を使うようにしなさいということです.私は、イヌもネコも飼っていませんが、熱帯魚を飼っていますから、私に言わせれば、「サカナを使うくらいなら、イヌを使ってください」(笑).これとて、とても一筋縄にはいかない問題です.

実は、生命倫理のようなことに多少関心をもって、その授業の担当を引き受けることにした背景には、私の先生から投げかけられた謎があります.英語では"life"、ドイツ語では"Leben"と言いますが、どちらも命と生活という二つの意味を同時にもっている言葉です.ところが、日本人は命と生活は全然違う言葉だと思っています.こういう謎をかけられて調べた人が言うには、アジアからアフリカにかけては、命と生活は別の言葉で、西ヨーロッパは一つの言葉だということでした.人種的な差あるいは地域的な差が違う文化を生み出しているのか.それとも、文化が先で言葉に影響したのかもしれません.答はありませんが、生命を考える上で、非常に面白い謎だと思っています.

そういうことで、この会では、いつか生命倫理をやりたいと思っていました.今日は皆さんからいろいろなご意見を聞いて、参考にさせていただきたいと思っています.

三井: 笑い話を一つ.遺伝子組換えのガイドラインを作るというときに、その話を聞こうと科学技術庁を訪ねたところ、「それは生活科学課で扱っております」と言われました(笑).ライフという言葉が生活だとは知らなかったわけですね.

それから、大島さんにお尋ねしたいことがあります.大島さんは数えきれないくらいのバクテリアを殺していらっしゃるわけですが(笑)、そういう方の生命倫理はどういうところにあるのでしょうか.後程、お聞きしたいと思います.では、ここで、10分くらい休憩します.


(休憩)


三井: 後半を始めます.例によって、大島さんがゲスト講師の方々に意地悪な質問をするところから始めたいと思います.

大島: 最初は水谷先生への質問です.私たちのような生命科学の研究者が生命倫理を身近に感じるようになったのは、生命倫理という言葉が出た数年後に遺伝子を操作できるようになった頃です.まもなく、科学者自らの手で遺伝子組換え実験の規制に関するガイドラインが制定されました.ところが、このガイドラインは、今では法律になっています.かつては、研究者は悪いことはしないという性善説が前提でしたが、今は法律ですから罰則があります.この法律は、「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律」といって、生物多様性条約の中に入っています.この秋には、生物多様性条約締約国会議(COP10)が名古屋で開かれることになっていますが、一般の人には、遺伝子組換えに関する法律が、なぜ生物多様性条約の中に組み込まれてしまったのかが分かり難いのではないかと思います.その辺のところを解説していただけるとありがたいのですが.

水谷: 最初に出てきた遺伝子操作に関する問題は、農業に関係していました.つまり、収穫を増やしたり、労働を減らしたり、農薬の使用を減らしたりする目的で、遺伝子が組み換えられた種子が開発されたのです.そういう種子は、野外で使われることが前提になっていますから、実験室内に閉じ込められるものではありません.野外に出ると、組み換えられた遺伝子が拡散する恐れがあります.外来種の問題もよく聞かれると思いますが、それ以上に様々な問題が起こるのではないかということで、生物多様性条約に含まれることになったのだと思います.

大島: 今度は会田先生にお尋ねします.一言で言えば、ヒトの死をどういうふうに考えたらよいかということになります.心臓死がヒトの死だと考えられていたときは、心臓という一つの器官がものすごく大事なものだと考えられていたわけですね.同じように、脳死というのは、脳がヒトという個体の死を決めるほど大事な器官であると考えたからだと思います.しかし、一つの大事な器官を決めて、それが機能しなくなったときをヒトの死とするような死の決め方がこの先も続いていくのでしょうか.あるいは、それでいいのでしょうか.


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Last modified 2010.08.03 Copyright(c)2005 The Takeda Foundation. The Official Web Site of The Takeda Foundation.