畚野信義 |
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[図 32]
[図 33]
[図 34]
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[図 40]
[図 41]
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[図 32]
TRMMの前史時代はここで終わりまして、熱帯観測衛星の歴史の時代に入るわけですが、以前から日本とアメリカの間では、宇宙関係で昔から衛星通信その他で、国際的な協力がずっと行われておりました。SSLGスタンディング・シニア・リエゾン・グループミーティングという打ち合わせの会議があり、NASAの長官と日本の科学技術庁長官が議長ですが、1986年の6月にそれが開かれたところで日米双方からTRMM衛星を提案して承認されました。しかし承認されても、両方の国ともなかなかビューロクラシーは動かないですよね。それでアメリカの相棒たちと一緒に、当時のNASAの副長官のオフィスに押し掛けて、いろいろ交渉したわけです。先ほどの日米共同の分担のスキームのなかで、ロケットは日本が持つというところがいろいろと問題になりました。
当時それまでの日本のNロケットは、アメリカからの技術導入で作ったもので、そのときに日本の衛星以外は打ち上げてはいかんという制約があった。このH2ロケットについても本当に日本の技術だけでできるかどうかというのが問題になって、NASAのオフィス・オブ・インタナショナル・アフェアズ、これはビュロクラットの集まりで、ここが非常にリアクタントだったのですが、最終的に副長官が日本の当時の宇宙開発委員会の委員長代理をしておられた斎藤先生に手紙をくれることになりました。その手紙が日本に来たときは本当に上を下への大騒動になりました。どうしようかということで、当時、科学技術庁の宇宙国際課の人たちが随分サポートしてくれて日本から返事を出すことになり、やりませんという返事は出せないので、フィージビリティ・スタディをやりましょうということになったわけで、それから1年かけて4回にわたって日米で会合を開きました。4回目の終わるときに一緒に国際シンポジウムをやろうという話になったのですが、当時私は一銭のお金も持っていなかったのですね。
当時の日本の国立研究所というのはそういう状況でした。今日は来ておられないのですが、東海大の坂田先生が全部お金を払ってくれて、1千万円近くにもなったと思います。でも、やはり金は足りないので、いろいろやりました。彼の知恵で、当時酒の日米価格格差が非常に大きかったので、外国から来る人は免税の3本分酒を持ってこい、そうしたらレセプションはただにしてやると言った。皆持ってきたので、あの時は20から30人来まして、Elachiさんも来ました。で、数十本酒が集まったので、これで毎晩ドンちゃん騒ぎをやった。これでそれまで疑心暗鬼だったアメリカ側が、日本は本気でやるなと思った。じつは本当はそうじゃなかったのですけどね。そういう雰囲気になって一挙に盛り上がったことを覚えております。
[図 33]
それで、フィージビリティ・スタディをやりまして、うまくいく、やれるという結果を出しました。報告書を出して日米双方でサインをしてもらって、日本の方は当時科学技術開発局長をしておられた、今の宇宙開発委員の川崎さんが随分サポートしてくださってサインをもらったのですが、その後が大変でした。NASA方はフェイズAからフェイズBにどんどん進んで行くのですが、日本の方は黄信号がこのように赤信号になりそうな色になって、この頃がやはり一番私たちの苦しい時代でした。
[図 34]
「諦めたときが負けだぞ」と岡本君の尻をいつも叩いてやっておりました。しかし、その間も着実に日米の共同実験をやっておりました。
[図 35] [図 36]
こういうジェット機を使って衛星搭載レーダの海面散乱の特性を取ったり、それから、この写真はダーウインの上空なんですが、この大きなDC-8で沖縄の台風の上を飛んで実験した。
[図 37] [図 38] [図 39]
こういうふうな軌道に沿って、台風を上から見ますとこんな状況ですが、これをレーダで測りますとこういうふうになる。
[図 40]
ここが台風の目です。非常にはっきりときれいに出ていることがわかります。もうちょっと広く見ますと、こうなって、ここの部分が目の部分ですが、台風の渦の一つずつのワインディング・アームのところで、強い雨が降っていることがよくわかる。
[図 41]
航空機搭載のレーダは二周波、ミリ波のほうも含めたレーダを搭載していたわけですがミリ波で見ますと全然違うように見えます。今回のTRMMにはこれを載せられませんでしたが、次の計画にはミリ波のレーダも載るそうで、こういう結果を使ってさらに信頼性の高いデータを得てほしいなと願っております。
我々が非常に幸運だったことは、「諦めたときが負けだ」と頑張っているうちに突然1990年にパリサミットで地球環境が大事ですよという話になったことです[図33参照]。これは92年のリオの環境サミットをにらんでの話だったと思うのですが、すると突然今まで反対していたりあるいは様子を見ていたりしていた人たちがこれを担いで走り出したのです。あれよあれよという間に私の手からも離れて、97年の打ち上げまでドンドン行ったので、私はここで特にその後ことについてはお話することがないぐらいであります。
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