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[図 13]
[図 14]
[図 15]
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5.科学的方法の非対称性
さて、そこで、悪夢の時代というのは、いったい何だろうかということです。それはさまざまなジャンルのDisciplineが存在するのですけれども、一口に言うと、それはこういうことなのです。(図13) 科学的方法の非対称性と書いたのですけれども、私は、非対称だと思うのです。左側は現実を観測して、法則を見つけます。これはいわば普通の科学的な研究です。現実というのは、ここばらばらのインスタンスである、その背後には何か共通の1つの法則があるはずです。この法則をつくる時には、必ずDisciplineというのをつくるのですね。Discipline、ですからこのある1つのDisciplineというのは、ある見方です。ある見方をわれわれで決めると、その世界でDisciplineというのが出てきます。Disciplineという法則ができるということです。このようにして、私たちは法則群を手にします。しかし、その法則、ニュートンの法則というのは力学であり、フックの法則というのは電気回路であり、化学にも法則があり、それを手にするのです。さまざまな法則群があって、この法則間の関係というのは、意外とあまりないのですね。もちろんそれは更に物性論とか細かいところに入っていけばありますけれども、それは無限の話で、どこまでいっても必ずDisciplineなのです。ごく簡単に言えば、機械工学では、いちばん機械工学で基本的なのはフックの法則です。バネの法則です。電気回路というのはオームの法則です。ではフックの法則とオームの法則というのは、どういう関係をしているのかということについては、われわれは問わないのです。もちろん関心のある人は、実践に入ってから、どういう結線を組めばどういう関係になるかを考えるのですが、それは全然関係ない話で、オームの法則とフックの法則というのは違う話なのです。フックの法則を使ってバネをつくることはできます。しかし、バネだけではなくて、現実には自動車だってなんだってさまざま者の集まりなのです。ですから、1つの自動車をつくる時には、この法則もこの法則も使わなければなりません。これらの法則が同時に議論できるような、いわば拡大されたDisciplineというのがあるのかということです。これが難しいのです。
どういうふうに難しいかと言いますと、これは機械工学の人たちが持っています。これは電気工学の人たちが持っています。大学で機械工学と電気工学を一緒にしようとすると血を見るというか、非常に仲が悪いのですね。仲が悪いっていったい何なのかというのは、これは大事な研究に値しますけれども、現実としてはこれを一緒にするというのは非常に難しいということですね。同時にこれを議論するというのは、言葉が違ってしまいます。Disciplineというのは1つの言語ですから。いわば外国語みたいなものですから。ところが右側のものをつくるということは、この異なる外国語を全部使って、違う法則を使って合体させるわけですね。行きは分解したのですから、今度はその逆だ、行きと帰りなのだけれども、そのプロセスが非常に違っていて、非対称です。だから、行けたのだから帰れるのだということでもないということです。こちらは分析的科学、合成的科学と呼んだりいたしますけれども、あらゆる部分にそういうものがありますよね。反応を通じて物質を作る、発生過程の進化を調べる、あるいは設計によって環境をつくるとか、政策によって社会の状況をつくる。それぞれ日常的にやっています。やっているけれども、こういったものをつくるということについての科学はあるのかというと、左側はあるのですね。方法論として一般化できますから、ですから論文審査もできるし、いい研究はすぐ評価できます。でも、右側は評価されにくいのです。評価されません。
5.1.Factual KnowledgeとUtilization Knowledge
なぜ評価されないかということは、いくつもの観点からそういう議論をすることができますけれども、例えばそれは、こういう話になります。(図14) なぜそんなことになってしまったかと言うと、これはやはり近代の知識の1つの特徴で、もともと知識というのは、今でも存在しているのですけれども、土着の知識というか、地域固有の知識というのがあります。indigenous knowledgeというわけです。それは何かというと、ある現実、対象についての知識を知ると、その対象の知識は何に役立つかということも同時に知れます。あるいは役立たないようなものには、関心を向けません。そういうものは知識にならないのです。ですから、文化人類学者などがしつこく調べると、ある特定の地域の民族の人々は、その島にある作物を全部1本1本克明に覚えます。わずかな違いを覚えます。そしてそのある種の木は、その木の枝をどうやって折る、どうやって煎じればどういう身体に薬として効くなんていうことを知っているのです。ですからその植生、どこにどうやって生えているかという、まさに対象についての知識と、人間にとっての意味というのが合体しているわけです。これを昔は知識と呼んでいたわけで、それ以外の知識なんていうのは、土着の知識と呼ばれるものの中には非常に少ないのです。ありません。しかし、ギリシア時代というのか、あるいは文明国における近代と言っているのだけれども、その時に私たちはその2つを切り離すのです。事実についての知識を明らかにすること、事実を明らかにする知識、これをFactual Knowledge といい、科学はこれを扱うのだとしてしまうのです。使えるか使えないかという点はもう考えるのをやめようとした結果、科学は急速に進歩するのです。ところが、右側は取り残されてしまうのです。ですから、例えば私たちが素粒子というのがあって、その素粒子についての知識がどんどんどんどん進みますけれども、それをどうやって使えばどういう得があるかなんていうのは、わかりません。あるいは後から考えて、追いかけていくわけです、ここで分離したわけです。私はたぶん、これは自然科学というのは左側で、社会科学というのが右側になると思います。これは少し大きすぎる仮説なのだけれども、たぶん厳密にはそうは言えないのですが、非常にその傾向がある。社会科学というのはこれからやる仕事がいっぱいあります。左側はあまりありません。あまりないと言うと問題かもしれませんが。そういう構造があるにもかかわらず、社会科学者のほうがやや元気なくて、お金がいりません、なんて言うものだから、右側は非常に遅れてしまったわけです。これはおかしいです。非常に一方的な状況をつくってきています。これをいかに奪回するかとか、あるいは右側の体系を左側とは独立につくって、現実にものをつくる人はこれを掛け算して両方使えばいいのもあると、そういう構造をつくらなければならない。こういう現実に関する知識の氾濫、特にバイオなんかは生命倫理がすぐ出てくる、そのために私たちはそこで知識の氾濫ということを通じて、人間の価値観、価値というものにも影響を与えます。更には環境にも影響を与えてしまいます。環境問題というのは、右側の話です。使った結果、何が起こるかですから、まさに右側をやらなければいけないということで、現在の知的状況というのは、いろいろな人間の価値に攻撃をかけるとか、環境破壊を起こすと言われるのは、基本的にはこういう構造にあるのです。こういう構造にあるということは、先ほどのリスク管理の問題と非常に深い関係があるだろうというわけです。
それでは、行きと帰りの話がどうなるのかということを、これからお話しなければいけないのですが、その前に先ほどの帰りを第二種の基礎研究と、ここで呼んだのですけれども、第二種の基礎研究というのを産総研で主としてやろうと、こういう覚悟をしたわけです。(図15) 夢と悪夢と現実の時代と、こういう上に書いたような1つのパターンがあるのですけれども、主に大学は左側をやります。産学共同と盛んに言いますけれども、なかなかたぶんこれは掛け声がまずありますから、おそらく本当の意味での産学共同が起こるのは、数年から10年後です。産学協同は左側と右側が一緒になればいいということではありません。先ほどの戻りという、あるいはUtilization Knowledge 、そういうわれわれがあまり扱ったことのない、まだ未成立のひとつの体系というものを組み入れなければなりません。それをわれわれはタイプ2の基礎研究と呼んでおります。左側と右側はつながっていないのです。産学共同だと言って、お互いに手を出しても結べないわけです。それではわれわれがそれを一緒にやろうと…。第二種だけやるというのは、一般には無理ですね。従って第一種の基礎研究もやり、開発研究もやり、自ら中途をつなげるような第二種基礎研究、全部やるような研究集団というものをつくるのです。それらはバラバラにいるのではありません。ある特定の目的にしたがってやります。本当のいわゆる『サイエンス』、『ネイチャー』に出すような論文を書いている人と、企業と付き合っている人と、その間を結びつける第二種基礎研究をやる人が、1つの研究ユニットを構成します。そういうのをフルリサーチ、あるいは日本語では本格研究と私は呼ぶのですが、それは先ほど言った行きと帰りです。行きと帰りの問題というものを顕在的に行う研究グループになります。こういう組織論になります。ですから、ユニットというのは60ぐらいありますが、この研究ユニットのすべてはこういった本格研究をやるわけです。このユニットの長というのは、本格研究をどういうふうにそのテーマごとに持っていくかという、一本のこういう、これは第一種の基礎研究、第二種基礎研究、開発研究やそういった1つ1つの研究では考えたこともないような、それをつなぐ1つの哲学、私はまだこれは哲学のレベルだと思います。そういう自立的な思索者、オートマシンであります。これがユニット長なのです。これを60人のユニット長がいるわけですけれども、そういう人たちがこれを統括している、こういう構造になっています。しかし、これを言うのは易いのですけれども、現実は非常に難しいです。それは第二種の基礎研究をやっている人をどういうふうにやって評価するかという、目に見えない、先ほどの可視的ではなく、市場もないのですから、非常に問題なのですが、これは提案です。
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