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講師: |
大島泰郎(おおしま・たいろう) |
ゲスト講師: |
松野孝一郎(まつの・こういちろう) |
日時: |
2007年6月16日 |
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異端児のみる生命 「生命の起源」 |
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三井:後半を始めたいと思います。
大島:私が「生命の起源」というような研究の分野に関心をもったのは、大学院の終り頃ですが、映画とかドラマを視ていると、どれもが、人が生まれてくるときと死ぬときが一番大事な場面になっている。だから生命の現象も、始めと終わりだけが特別面白いのではないかと思ったのです。終わりのほうは、老化とか加齢とかで、その当時からある程度の研究は進んでいましたが、生命の起源のほうは、今から40年前の日本で、真面目に採り上げている人はほとんどいませんでしたから、誰もいないほうがいいと思ってやり始めました。生命の始めでも、産婦人科のほうはダメだと思っていましたが(笑)。アメリカのNASAに留学して、生命に関連する分子が、どのような条件下でできるかというようなことや、タンパク質に似た化合物が原始の海の中でできるという実験もやりましたが、その後、あまり熱心にやっていません。
先程、三井さんから「巧みに躱した」と言われた瞬間に、生命の起源の研究に関しては、今は巧みに逃げることを最も得意技にしていることに気が付きました(笑)。時々は、ちょっとした思いつきがあると、実験的なこともやって、論文も書いたりしたのですが、普段はほとんどやってなくて、専らやっている人を批判しています(笑)。最近の得意は、「生命の起源の研究者は真面目にやっていない」というものです。ミラーの生命の起源に関する研究は1953年に発表されています。ご存知のように、WatsonとCrickがDNAの二重らせん構造を発表した年と同じです。あちらは、今や、遺伝子組み換え食品であるとか、再生医学であるとか、クローン動物であるとか、まるでマジックのようにモノを作り上げてきた。ところが、生命の起源の研究者は、今でもミラーの話をしている(笑)。私は逃げているものですから、「これは私自身に対して言っていることであって、反省して言っている」と付け加えることにしています。そうすると、私は余り非難されないですみます(笑)。
私は化学の立場から、生命というのは、タンパク質やDNAのような特定の物質を部品とする機械だと思っています。そういう部品の材料が、原始の海、あるいは、岩の割れ目に溜まったきたら、後は我々がプラモデルを組み立てるように、生き物が組み立てられるというのを基本原理として考えているわけです。ただし、その組み立てるところが難しいと思って、誰も手をつけていないのです。
組み立てるところは、まさに、生と死は何が違うかということで、最近は、「それをきちんと採り上げないのは怠慢である」と言い出しました。生と死の違いが何かということは、皆さんにも関心があるでしょうし、この分野の研究にとっても、核心を突く課題だと思います。
まだその答を言ってはいけないと言われているのですが、私の答は、「ない」です。生と死の境なんてないのです。生きているから死んでいるまでは全部連続ですから、地球上で最初の生命の起源もないのです(笑)。ある瞬間から、突然、生き物が出てきたわけじゃない。生き物らしきものや死体がどんどん出てきて、いつの間にか、生き物が始まっていたというのが私の答えです(笑)。
生命の起源の研究は、応用面でも、学問的にも、それほどの寄与はないと言われるのですが、生と死の境を自由に行ったり来たりできる技術は、もの凄く役に立つ(笑)。生と死をコントロールできれば、人工的な生物を作ることができます。少なくとも、テクノロジーの上では、非常に大きなインパクトを与えることになって、やがて、生命の起源の研究者は、研究費がとれたり、職にありつくチャンスが増えると思います(笑)。
ただし、人間は別です。臓器移植のときには、死の判定という問題が起きますが、あれは、自然科学の問題ではなくて、社会的なルールです。端的に言うと、生き物の生や死を対象にした議論ではなくて、その人の財産を分けてもいい時間を決める(笑)、それだけの話です。
K:剥がれ落ちた皮膚は死んでしまった細胞ですが、それを使って、DNA鑑定をするわけですから、人間は別だとも言えませんね。
大島:今は脳死判定の話をしたのですが、人間の場合も、どこをもって死と決めたらいいか、非常に難しいですね。しかし、臓器移植をやる時点では、臓器はまだ生きているわけです。同じ移植医療の中でも、皮膚の移植は古くから行われていました。皮膚の場合は、死んだ状態が長く続いた後の皮膚でも移植できます。角膜もそうです。私の言葉で言うと、ずーっと連続なのですが、大分あちらの方にいった後でも使える組織があるということです。
ずーっと連続だというアナロジーは、酸とアルカリです。これを中学校で習ったときには、酸とアルカリの間に大きな境があるように思いますが、pHという概念を入れると、全部繋がってしまいますね。生きているほうも、何かそういう数値化ができれば、皆さんに納得して頂けるのではないかと思いますが(笑)。
三井:細胞レベルの生命と固体レベルの生命には、大きな隔たりがありますね。大島さんの連続的な生命体というのは、どのあたりを指しているのでしょうか。
大島:「起き上がりこぼし」と同じようなアナロジーで、自動車を考えることができます。あれは、進化もしてるし、量産しますから自己増殖している。ガソリンという有機物を入れないと走りませんし、CO2を出して代謝もやっている(笑)。そういうものを生命体に入れるかどうかは、すべて定義次第だと思います。
三井:私の手元に、1973年に大島さんがお書きになった本(『生命の誕生 - 原始生物への物質の進化』)があります。今回のために、改めて読んでみたのですが、当時から進んでいない(笑)という印象でした。進まない最大の問題は、実験ができないということですか。それとも、生命とは何かというのが分からないから、研究ができない。研究が進めば、生命が何かということが分かる。そういう鶏と卵のようなことがあるのですか。
大島:化学や生化学の分野からこの分野に入っている人は、もっと本質的なことに、一歩を踏み込むだけの勇気がない感じはありますね。難しくて、何から始めたらいいのか分からないような状態が続いていたように思います。松野先生のような物理の方は、我々のようなケミストからすると、系を単純化し過ぎる(笑)。アミノ酸を一つか二つしか使わない。あれでは、いつまで経っても、生きているのは、ずっと向こうのほうをウロウロしていて、なかなかこっちへ来てもらえないという感じがあります。
三井:松野さん、それでよろしいのですか。
松野:最近、システムバイオロジーというのが、かなり力を得てきました。つまり、研究費が潤沢に出ている。ここで扱っているアミノ酸は、2種類ではなくて、もっと多い(笑)。
われわれの体は、JRの時刻表どころではない、もの凄く複雑なネットワーク、化学反応のネットワークで出来上がっています。これを言葉で書き表そうというのが、システムバイオロジーです。われわれは、時刻表を見ても、電車が脱線することなく動いているかどうか咄嗟には分かりませんが、コンピュータに時刻表を読ませて、事故なく運転可能かどうかを検証できるようになってきました。それと同じようなことをやろうというわけです。
ただ、その際、生命とは何かというのは、聞かないことにするのです。「生命」という言葉は、今から、1000年か2000年か3000年前か、それは分かりませんが、誰か非常に賢い人がつくったわけですね。ある時から、皆がその言葉を使うようになって、そこには確固たるイメージがあるはずですが、定義しようとすると、何だかよく分からんということになる。システムバイオロジーをやろうとしている人は、生命という言葉を使わないで、生命に関連する現象に肉薄しようと、もの凄く感心したことをやっていらっしゃる。
三井:それは、物理学者の知恵ですね(笑)。
松野:私は、システムバイオロジーが非常に結構だと言っているわけではありません。それをやっている人が予算をたくさんもらっていると(笑)。予算を出す方は、何らかの理由で、それを非常に魅力に感じているからですよ。私にも意見はありますけど、これを言いますと、ろくな事がおきない(笑)。
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