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講師: |
大島泰郎(おおしま・たいろう) |
ゲスト講師: |
松野孝一郎(まつの・こういちろう) |
日時: |
2007年6月16日 |
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異端児のみる生命 「生命の起源」 |
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松野:ミラーは、最近、亡くなられましたね(5月20日)。私は、スタンレー・ミラー(Stanley L。 Mil-ler, 1930-2007)の業績に敬意を払うことに関しては人後に落ちないつもりです。しかしながら、彼が実験で得たアミノ酸のような小さな分子は、ミラーがいなくても、天から降ってくると言いますか(笑)、宇宙の塵で、アミノ酸やその前駆体が容易に作られるということが分かってきました。ミラーは、地球上においてすら、ある条件さえ満足されれば、アミノ酸分子はできるということを示した点で素晴らしいと思います。アミノ酸などの小さな分子は、こちらから注文を出さなくても、非常に寛大な仕方で、無償でもって、我々の所にやってきた。私の話は、それを前提としています。
食い尽くしたらどうなるかという質問ですが、主として、自分の足を食っている。外からやってくるものを利用するのは結構ですが、その外から来るものが枯渇したら、どうするのか。ただ、おとなしく待っているのか。それよりも、自分の足を食ったほうが、物事がよりスムーズにいくのではないか。ここにおいて、有機化学者と生化学者の違いが鮮明になってきます。有機化学者は、自分の足を食うなんていうことは考えません。むしろ、とんでもない話です。しかし、生化学者は、それに乗っかった上でやっておられます。ただし、「自分の足を食う」などという、えげつない言葉は使わない(笑)。非常に紳士・淑女的です。
三井:生化学者として、何か一言。
大島:松野先生を非常に尊敬しているのは、私が思い付かないようなことを仰るので・・・(笑)。松野先生の研究は、自己増殖し、かつ、外界との間で物質循環する、そういう生命のシステムを先ずイメージして、それを模倣するような分子の系を作ろうとされている点で、非常に優れていると思っています。
三井:大変上手にかわ躱されましたね(笑)。
K:自己増殖する奴が種族として増えてくるというメカニズムが、ただ食うか食われるかだけでは説明がつかないと思うのですが。
三井:私も、食いたい切りたいだけですと、全体としては増えないというところに拘るのですけれど。
松野:ジャック・モノー(Jacques L. Monod, 1910-1976)という方が、今から30数年前(1971)に、大変なベストセラーになる本(『偶然と必然』)を書きました。そこに、自己複製する分子が現れるというのはいかに稀な事かという見解を出しています。それは、非常に多くの方に訴えるところがありました。稀なことが起きて、それが続くというのは、確かに良いことですが、稀なことは、すぐに消えて無くなる宿命もあわせて負っています。
生命が現れ始めた頃、地球上は、とんでもない状態であったはずです。隕石は降ってくるし、火山活動も凄い。そうしたときに、たった1個のものが現れて、それが二つになり、四つになりということを、頭の中で想像することは可能ですが、現実には、それを保証する条件を想定することは不可能に近いくらいに困難なことです。
原始地球上のようなところで、比較的安定に化学反応が進み、なおかつ、化学反応を促進させるためのエネルギーがあり、そして、化学反応を持続的に行うために、トヨタの自動車工場のように、ジャスト・イン・タイムで、原料が搬入されてくるシステムが備わっているところは、海の底くらいしかない。
そこには、確かに原料が枯渇するという問題はあります。そうしたときに、どうするか。われわれのような職業をやっている方々にとって、どの分野であれ、この種の問題はなかなか採り上げてもらえないんですね。というのは、相手とする分子が一体どのような振る舞いをするか分からないということが、基本にあるからです。供給が先ず保証され、消費がどのようになされるか、は理論的に理解しやすい問題設定です。経済学はその典型例です。ところが原料の枯渇は、消費が先行する場合です。何を消費するのか分からない分子を相手にした論文を書いたとき、それを、第三者であるレフリーに評価してもらうのは至難です。評価してもらうためには、全てがあらかじめ用意された条件の中で、異議を唱えられない形で、分子が動いてくれなければならない。ところが、分子自体は、非常に節操がないわけです。何とでもくっ付こうとする。
その節操がない分子を相手に、正面切ってやっているのは、"Origin of Life"をやっている連中ですが、それで予算をとろうとした場合に、厳しい目をもった生化学者や有機化学者が査読者になると、だいたいは通らないですね。「分子は節操がなく、誰とでもくっ付きたがる」というのが、少しでも出てくると嫌になるわけです(笑)。
というわけで、節操のない分子は、外から運ばれてくる原料をおとなしく待つほど、柔ではありません。だから、自分の足を食っていくということです。
I:これまでのところは、ケミストリーの話ばかりですが、宇宙には「ゆらぎ」という部分があって、完全に均一ではありません。そういう「ゆらぎ」の中で生まれてくるというような物理的解釈は考えられないのでしょうか。
三井:松野さんは物理学者です(笑)。
松野:私が、このような話を、十分な準備をせずに、化学者の前でやると、猛烈にバカにされるんですよ。「あなたの言っていることを、実験室で実現できますか」とくるわけです。最初はムカッとしたのですが、だんだんとケミストを尊敬するようになってきました。ケミストは、具体的な事実や、分子が変換していく事実に精通していて、物理学者はとても追いきれないと思います。
物理学者というのは、そもそも語彙が貧弱なんですね(笑)。私は物理出身ですから、反省の意を込めて言っているわけで、決して物理学者をバカにしているのではありません。彼らは、語彙は貧弱ですけど、語彙が貧弱であることを認めないのです。それで、化学者や有機化学者や生化学者に食って掛かるものですから、だんだんとまともに相手にされなくなってしまうのです。
物理にも、"Origin of Life"に関心をもっている方がいることは間違いありませんけれど、「生命の起源」の学会では、主流の考えにはなっていませんね。物理学者は、「ゆらぎ」というようなことを分かったつもりになっているのですが、ケミストは、「ゆらぎ」などという雲を掴むような話を持ってこられても、相手にはできないと言うでしょうね。最近は少なくなってきたと思いますが、物理学者が「ゆらぎ」だとか「非平衡」だとかを言うとき、世の中の全てが物理帝国の中にうまく収まってくる、というのを、どうしてもチラッチラッと出すわけですね。物理学者にとっては他意のない、率直な印象なのだろうとは思いますけど。
「ゆらぎ」が重要であるということは、私も承知しているつもりです。「分子に節操がない」と言ったのは、私なりに、そういう「節操の無さ」で「ゆらぎ」に近づくことができはしないかということが背景にあります。しかし、物理と化学の両面から攻められたら、これこそ立つ瀬が無くなってしまいます。どちらか一方から支持を得たいという切実な望みが私にはあります。私が目下のところ化学に片寄っているのは、言葉が豊富だからです。物理は鋭いけれど、語彙が貧弱。貧弱な語彙で強引なことをされてもろくなことが起きない。鈍い刀で勢いよく振り回されても非常に困る(笑)。
三井:謙遜なさって、語彙が少ないと仰いましたけれど、本質的なことをシンプルに表現するのが物理なのではありませんか。(笑)
松野:それは、物理を非常に買いかぶった表現ですね。物理学者は、「物事は本来シンプルである」というところまで言い切ってしまうんですよ。「シンプルではなく複雑だと言うのは、考えが足りない証拠だ」と。「物事は一見複雑に見える。しかし、本質を捉えれば、コトはかくも簡単になる」と言うのは、物理学者の常套句です。これはガリレオ以来、非常に有効であることには間違いありませんが、今の時代、ガリレオによって、生化学が分かる、と言う生化学者は誰もいません。かといって、ガリレオに正面切って楯突くこともしないというのは、非常に大人だと思いますが(笑)。
三井:生命現象というのは、複雑なものではないのでしょうか。
松野:「複雑だが、よくよく見れば、かくも簡単だ」という言い方は、不遜な言い方ですよね。「複雑だけど、これだけのことが言える」ということでしょう。たとえば、ダーウィンが「自然選択」に到達したのは、もの凄い数にのぼる個別事象を調べた結果です。『種の起源』の大半は、彼が経験したありとあらゆる事例を書き並べたものです。ところが、物理学者は得てして、「自然選択が働いた結果こうなる」という言い方をするわけですね。話が完全にひっくり返っている。われわれにとっての後知恵が、自然界を動かす原因になりはしない。彼らは、それを、なかなか認めようとしないのです。
少なくとも、生物の複雑な問題に関して、物理学者が何か非常に鋭いことを言おうとしても、博物学的な知識を背景にした生物学者に、物理学者は太刀打ちできない。彼らは徐々にそれに気付き始めています。特に、若い物理学者、ポストドクトラルの方に、それを感じます。彼らは、鋭い問題意識をもつと同時に、職を探さなければいけませんから(笑)、正に真価が問われているという段階なのです。
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