The Takeda Award 理事長メッセージ 受賞者 選考理由書 授賞式 武田賞フォーラム
2002
受賞者
講演録
中村修二
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Q&A






中村修二
 
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私はフロリダ大学でドクターの学生にアホにされたのです。私は、フロリダ大学に行った時には修士しか持っていなかったのです。で、「論文書いとるか」と聞かれたから「論文は何も書いていない」と言ったのです。当時、会社は論文発表、学会発表禁止ですから。「論文もないし、ドクターも持ってない」と言ったら、むこうの学生は、私のことテクニシャン扱いです。アメリカの企業では、学部卒はテクニシャンなんですね。研究者ってのは、必ずドクターを持ってないといけない。当時はそれを知らなかったんです。それで頭にきて、帰ったら必ず論文を書いてドクターをとってやろうと思いました。日本は独特の論文博士のシステムがありますから。会社では論文禁止なんですけど、首かけてますから全部無視です。

この時に、さきほど赤崎先生や天野先生から説明がありましたが、材料にセレン化亜鉛(ZnSe)と、窒化ガリウム(GaN)という二つがあって、ZnSeは世界中の人が研究していたのです。窒化ガリウムいいますと、日本では当時赤崎先生と天野先生ぐらいです。どっちが論文を書けるかって言えば、窒化ガリウムです。ほんのちょっとしかやられていませんでしたから。ZnSeはたくさんの人がやっています。自分なんて論文を全然書いたことがないのですから、そんなところで書けるわけがない。で、窒化ガリウムを選んでやったのです。最初は市販のMOCVD装置を買って、GaNの結晶成長を始めました。ところが市販の装置を使ってやると、全くうまくできないのです。これは、天野先生が先ほど説明されたように、装置に工夫がいるのです。私は初めてですから。

私が始めたのは1989年です。赤崎先生や天野先生はもう昔からやられておられる。赤崎先生は70年代からされていますし、天野先生は80年代の最初からやっている。で、私は新入りです。やったら、なんにもできない。その市販のMOCVDの装置は2億円です。これは困りました。それで自分なりに、天野先生がやられたのと同じように、装置の改良を始めました。一年半ぐらい装置の改造を毎日やりました。午前中できない時は、午後に改造をやりました。そうすると、一年半後に、1990年の夏ぐらいですかね、ツーフローMOCVDっていう装置ができたのです。それまで世界最高のデータを出していたのは赤崎先生と天野先生のところなんですが、これでGaNを成長しますと赤崎先生や天野先生たちが出しているデータよりも良かったわけです。私は歓喜して喜んだ。私の人生で世界最高とか世界初めて、一番とかはなかったですから。会社の人間は誰もわからないのですけどね。

その装置でいろいろ次から次へやりますと、2〜3ヵ月のうちには世界初、世界一のものができました。例えば、先ほど天野先生が言ったインジウムガリウムナイトライド(InGaN)も、その装置でやりますと、簡単にできたわけです。あと、その実際のLEDの構造なんかを工夫してやりますと、非常に明るいのができる。そういうことで、いろいろブレイクスルーがあった。たとえば、p型GaN。89年、私がGaNをちょうど始めた時に、赤崎先生、天野先生らがp型GaNができることを発表したのです。私は当時、始めたばかりでしたが、かなりショックを受けました。「p型GaN先にやられたなー」「自分でやってやろうと思っていたのに、先にやられたなー。こりゃあまいった。」と。で、論文を読んでみますと、電子線照射をやっているわけです。私のp型GaNは実際、91年ぐらいからトライして、92年に論文を書いたのですが、簡単に熱処理で、できるようになったわけです。それはやっぱり装置が良かったために、かなり良いp型層ができたせいです。

そのツーフローMOCVDの装置は90年の夏ぐらいに作りまして、数ヵ月単位で良いデータが出せました。このツーフローMOCVDという装置が、現在以前の会社を特許法というやつでを訴えている、404特許というやつです。これを以前の会社が使って、良い結果が出ているわけです。青色LEDもよく光るし、レーザーもいいんです。

私はこの特許を即出したわけです。当時会社は、先ほども申しましたように、論文発表、学会発表、禁止です。特許も、公開される特許は禁止でした。全てノウハウ出願です。私は先程言いましたように、論文を出したかったので、そのツーフローMOCVDができましてから、論文をこっそりこっそり出していたのです。その論文を出す時に、ばれたときの会社への対策のために、特許を必ず書いたのです。論文を書くことがインセンティブです。そういう特許を、こっそり、こっそり書いて出していたのです。その特許で以前の会社は今現在、もっているわけです。その特許を使って他社をいっぱい訴えたわけです。私まで訴えられているのですけどね。アメリカで訴えられましてつい最近勝ったので、非常にうれしいのですけれどね。

そういうことで、93年にその青色LEDの製品化に成功したわけです。これは従来より100倍くらい明るい。これは発表してもなかなか信じてもらえなかったのですが、みなさん実際にモノを見てびっくりされた。それと、緑色のLEDを95年に開発して、製品化発表したわけです。レーザーも、95年の終わりに最初にレーザー発振して、99年くらいに製品化に成功しました。そういうことで、その間に特許を数百件くらい出しまして、成立したのはだいたい50件ぐらい。大事なのが成立したわけです。それで以前の会社はもっているわけです。

そういうことで、全部終わってしまったわけです。99年の終わりには会社でもうやることなくなった。そうすると、日本でははんこ押しが仕事になるんです。ぼくなんかもう部長待遇の役職になりまして、いっぱいはんこをつきましたよ。はんこ押しが仕事なんです。それで結局、「このままでは自分がボケるな」と思いまして、辞めたくなったのです。そういう時にアメリカの大学に来ないかとオファーがあり、真剣に考えるようになって、アメリカに行くことにしました。ですから私は田中耕一さんもすぐに辞めると思っています。そうでないと人間進歩しない。はんこ押しじゃだめだと思います。


 
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