リチャード・M・ストールマン |
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ここでは、レシピがいい例を示しています。プログラムと同じようにレシピというのは機能的なものです。あなたはそれを使って作業を行います。したがって、ソフトウェアをレシピのように取り扱いたいということは当然のことです。私達はプログラムをレシピと同じように使うのです。そして、機能的な製品には、辞書、百科事典、マニュアル、テキストブックなどがあり、それらはすべて私達がなんらかの作業を行ったり、言葉の意味を調べたり、国、場所あるいは人に関して基本的な情報を検索したり、事柄を学習したりするのに使うものです。こうした製品のすべてに対して、同じ問題が適用されます。つまり、同じ自由が与えられなければならないのです。辞書、テキストブック、百科事典などをコピーし、再配布し、そして、修正したりすることにあなたは自由でなければならないのです。そして、喜ばしいことに、フリー・ソフトウェアという考え方をそれらの分野に拡張するために、現在多くの活動がなされています。
数年前、私は、フリーの百科事典を開発する方法を提案しました。人々はフリーの百科事典を長年にわたり提案してきました。通常、それらのプロジェクトは、百科事典のデザインをプラニングする上で行き詰りました。したがって、私は、「それをデザインするのはやめて、人々に百科事典の内容について書くよう依頼してはどうか」と主張し、そのプロジェクトは走り始めました。フリーの百科事典の内容を充実させる作業を行うビジネスさえあるのです。さらに、「ウィキペディア」(Wikipedia)と呼ばれる一般人々がすべての内容を寄稿したフリーの百科事典があります。それによりフリーの百科事典の作業は私が予期したよりずっと早く完了するように思われます。私の予想では10年から20年はかかると思っていたのですが、現在非常に迅速に進んでおり、まもなく完成するでしょう。そして、その後残されている問題は、世界中の言語にそれを翻訳するボランティアを見つけることだけでしょう。
また、フリーの辞書のプロジェクトもあります。私が知っているところでは、フリーのスペイン語辞書プロジェクトやインドでは各種の言語間での翻訳を行うフリー辞書プロジェクトがあります。また、ワロン語のフリー辞書といったようなものまであります。ワロン語はベルギー古来の言語で、一部が忘れられており、多くの部分がそれによく似たフランス語に置き換えられているものです。しかし、現在、ワロン語のフリー辞書があり、それまではワロン語の辞書というのは実際にはなかったようです。実際にワロン語は現在コンピュータにも使われています。これは、彼らによるとフリー・ソフトウェアのおかげだということです。
これらのパイロット・プロジェクトは、フリー・ソフトウェアと同じようなやり方で辞書を開発することが可能であることを示しています。私はいつか、フリーの英語辞書が生まれるのを期待しています。そしていつか、フリーの日本語辞書が生まれるのを期待しています。なぜならコンピュータは、ユーザが使用したいいかなる言語に対してもフリー辞書へアクセスできるべきであるからです。
フリーのテキストブックも生まれ始めています。最近、私は、「どのようにコンピュータ科学者のごとく考えるべきか」(How To Think Like A Computer Scientist)とタイトルの本を見つけました(すくなくとも、そういうようなタイトルだったと思います。私の記憶力は以前より悪くなってますが)。この本は、GNUフリー・ドキュメンテーション・ライセンス(GNU Free Documentation License)の下でリリースされているものです。このライセンスは、GNUシステム用マニュアルのために私達が使うものです。そして、その著者は彼の著作に対して出版社を探しています。興味深いことに商業的出版社はすでに、フリー・ドキュメンテーション・ライセンスの下で本を出版しており、通常の方法で書籍を販売し、著者には、通常の方法で著作料が支払われているのです。
それ以外に、こうしたアイデアは進展するでしょうか?機能的製品以外の分野では、私達は、まったく異なる目的に対応した作業を行うことになります。例えば、科学論文や回顧録そして随筆などがあります。それらの目的とは、特定の人が見たり、考えたり、あるいは、信じていることを述べるということです。それは、機能的製品とは大きく異なります。この場合、それらの目的は特定の人が考えることを示すということであり、したがって、それらの作業を修正するということは、正しくないと考えます。
そしてまた、芸術作品にはついては修正ということが大きく異なった問題を提示します。なぜなら、場合によっては、それらは芸術的に質の高い作品で、変更されると、その芸術性が損なわれることがあるからです。しかし、しばしば営利目的のためにだけ作成されたもので、それらに特に高い芸術性が見られない場合、他の人がそれらを改良することができます。
最近、私は「スターウォーズ・裏バージョン」(Star Wars, the Phantom Edit)という映画について聞いたことがあります。そうです、裏バージョン(Phantom Edit)です。誰かが、「スターウォーズ、ファントム・メナス」(Star Wars, the Phantom Menace)を入手して、それを編集し、部分的に入れ替えたり削除したりしたものです。そして、それを見た人たちはオリジナルより優れていると言っているのです。これはもちろん違法なものでアンダーグラウンドで出回っています。しかし、これを芸術的作品または娯楽的作品を修正するということは社会に有益であり、社会の文化的豊かさに貢献し得るということを示す派生的プロセスの一例と考えることができます。そして、このことは、それが許可されるべきかどうかという大きな議論となっています。
では、人々が作品を共有したり修正することを禁止する目的の著作権といったシステムにとって、このことはどんな意味を持つのでしょうか?少なくとも、私達は著作権のうち、非商業的再配布を禁止する部分を取り除く必要があると思われます。隣人と何かを分かち合うことを禁止するような事を、私達は社会の人々に対して絶対に言うべきではありません。そうでなければ、私達は、社会が依存している善意という考え方を根本から覆すことになります。私達はそれを許してはならないのです。
しかし、他の形態の使用、修正あるいは商業的再配布はどうなるのでしょう?ソフトウェアの分野と他の機能的製品に対しては、修正されたバージョンの配布がすべての人に許可されており、それらを商業的に再配布し、販売することさえ必要不可欠であるとしています。なぜなら、これらの製品が使われるにはそれが重要な方法だからです。人々がそのような方法で使うことができなかったら、それは私達のコミュニティでは実際に使われることはありません。つまり、障害が生まれるのです。それこそが、フリー・ソフトウェアにおける基準において、すべての人が、プログラムのコピーを、それが修正されていてもいなくても販売する自由を持つべきであると私達が主張する理由なのです。
他の種類の製品に関しては、おそらく製品の商業的利用を制限する著作権を持つことは妥当だと思います。これに関しては、私自身まだ充分に考えてない課題でありますが、今後、あなた方が考えていただけることを期待しています。
ありがとうございました。 |
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