リチャード・M・ストールマン |
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「広く一般に公開される」ソフトウェアに対する人々のニーズを私達が満足できるかどうかは最初のうちは明らかではありませんでした。1980年代にさかのぼってみると、完全にフリーなオペレーティング・システムは絶対にできないと人々は言っていました。しかし、現在、完全なフリーなオペレーティング・システムが存在します。1990年代の初めまでには、フリーのオペレーティング・システムはほとんど完成し、そして、残っていた主なギャップは、私の後に登場した仲間により埋められました。この仲間というのは、リーナス・トールバルズ(Linus Torvalds)です。彼は、GNUとLinuxのコンビネーションを作成しました。Linuxは、現在、何百万というコンピュータで使われているシステムです。それ以来、フリー・ソフトウェアの爆発的な増大が、多種多様なプロジェクトに携わっている何万人という開発者(多かれ少なかれ独立して、しかし、時に理由があれば協力して)と共に、社会の問題に対する分散化されたの自発的ソリューションのモデルを示しています。
この時点で、真に重要な唯一の問題は、ソフトウェアに対する社会のニーズを私達が満たし続けるのを政府が許可するかどうかなのです。アメリカ合衆国において、ある種のフリー・ソフトウェアの開発を禁止する2つの異なる法律があります。その1つが、「ディジタル・ミレニアム著作権条例」(Digital Millennium Copyright Act)です。これは、非常に卑劣な法律で、DVDから映画を再生したり、新しく暗号化され録音された音楽を聴いたり、あるいは、電子ブックを読むといった非常に重要な機能のある特定部分に対するソフトウェアを独自に開発する人を刑務所に送ると脅かすものです。これらのフォーマットは一般大衆が「手出しができない」ように設計されており、そして、一般大衆に「力を与える」(出版側が意図的に課する制限から一般大衆が「逃れる」のを可能にする)どんなソフトウェアも、アメリカ合衆国では禁止されているのです。他の国はこのような法律を拒否する必要があります。
現在、あるロシア人プログラマが、アメリカ合衆国に「閉じ込められて」おり、そして、何年もの懲役刑が課せられかけようとしています。なぜなら、彼は、Adobe社の電子ブックを柔軟な方法で見るのを可能にするプログラムをリリースしたとされる会社で働いていたからです。Adobe社は、彼がアメリカ合衆国を訪問中に、逮捕して起訴するように(政府に)依頼したのです。彼が開発に従事したとされるプログラムは、彼がその開発に従事したとされるロシアではまったく合法的なのです。(ここで、私が「従事したとされる」という表現を使ったのは、それらの事実関係がわからないからです。私は彼がそのために訴えられているということだけを知っています。)しかし、世界中で著作権に関して主張したいアメリカ合衆国政府にとっては、そんな事実は無関係なのです。
もう一つの危険な法律とは特許法です。特許がソフトウェアに適用されると、それらの特許はソフトウェアの開発者を「がんじりがらめ」にします。みなさんもおそらくご存知のように、多くのプログラムは極端に巨大化しており、複雑になっています。つまり、多数の人が数年をかけてプログラムを開発しているのです。そのプログラムは何十万行というコードや、したがって、何百万というコンポーネントがデザインの中にあることになります。そのようなプログラムでは、何百という異なるアイデアを使わなければなりません。そして、危険なのはそれらのどのような部分も、他人により特許を取られている可能性があるということです。したがって、ソフトウェア特許の危険性とは、あなたが自分自身でプログラムを書くことができても、それを書くことにより、他人によって告訴される可能性があり、そして、あなたのユーザもそれを使うことにより告訴される可能性があるということです。
この問題を解決するために、ソフトウェア特許を拒否することが必要不可欠です。そして、残念なことに、日本は、数年前にソフトウェア特許を認可してしまい、それにより、日本で現在ソフトウェアを開発している人々は、彼らのプログラムで使われているアイデアに対して告訴される可能性があるということになります。
これらの法律は、すべてのソフトウェア開発者にとって「痛み」を伴うものです。フリー・ソフトウェアを開発するには費用はほとんどかかりません。それらの法律は、その費用がかからないということを問題として、フリー・ソフトウェアを開発するために作業をしているボランティアのグループに特に悪影響を与えます。私達は、「広く一般に公開される」ソフトウェアに対する社会のニーズを満足させることができますが、しかし、それには政府が、私達が社会に貢献できるように許可する必要があります。
さて、フリー・ソフトウェアにおける自由という考え方は、ソフトウェアを超越してどこへ行くのでしょう?私達はこの考え方をどこまで追求できるのでしょうか?これは、物質的なものには適用されません。つまり、例えば、私はこの時計をコピーすることが許可されているでしょうか?私は時計のコピー機を持っていません。そういったことはSFの世界でのみ存在するものです。したがって、そのような質問は何も意味がありません。この時計を製造した工場では、この時計のマスター・モデルをコピーすることにより時計を製造したのではありません。その工場は、部品からこの時計を製造しなければならなかったのです。
私には時計を「変更する」ことが許されているでしょうか?もし私がその時計を買えばそれを「変更する」ことができるでしょう。それに対してはだれも異議を唱えることはありません。したがって、自由に関するこれら2種類の問題は、通常の物理的物質に対しては発生しませんが、しかし、それらは、ソフトウェアとは異なる種類の情報、例えば、レシピに対しては意味を持つことになります。 |
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