理 念  Philosophy


武田先端知ビル竣工式でのご挨拶

武田郁夫 2003.12.17

ご臨席の方々、武田郁夫でございます。本日はお招き頂きありがとうございます。このまま、着席のまま失礼いたします。

本日は、武田先端知ビル竣工式に列席することができ、大変光栄に思っています。本日を記念して少し時間を頂いて縷々お話申し上げます。

まずは、本ビルを「武田先端知ビル」と命名して頂いたこと、これについてお礼申し上げます。この名前のいきさつでございますが、このアイディアは全くと言っていいほど悩まずにすぐに名付けることができました。といいますのも、2000年6月22日のことでございますが、当時の東京大学工学部長であった小宮山宏(こみやまひろし)氏から「武田さん、東京大学工学部に建物費用を寄付して頂けませんか」というお話がございました。その時点で、私は、新しい財団を立ち上げようと準備室を構えておりました。準備室の時代には、その新しい財団でどんな理念を掲げるべきか、毎月、将来の役員をお願いする有識者の方々にお集まり頂いて、様々な議論をやっておりました。新しいことを始める前ですから、皆大いに夢や理想を侃々諤々語っていたわけです。

吉川弘之先生の監修された工学知シリーズの本というのは、それよりも前に出版されていたようでございますが、その本はその頃の我々の教科書の一つでありました。そこから知恵を頂戴して、工学知、理学知、先端技術と議論していくうち、先端知という言葉に行き当たり、新しい財団もその名前でいきたいとちょうど思っていたところだったのです。そこへ、東京大学のお話がございましたから、名前についてはすんなりとアイディアが出ました。

東京大学から40億円の寄付のお話を頂いたとき、私は非常に光栄だと思いましたが、それほど負担であるとか、驚きなどはございませんでした。むしろ、幸運だと思う気持ちが強かったのです。確かにどんなに幸運なことでしょう。日本を代表する大学からの特別のお申し出だということ、それも自分のやってきた半導体の分野について特にお役に立てること、さらにこの自分に白羽の矢が立つということ、そして、私が新しく始めたいと考えた財団のスタートにどんなにプラスになることだろう。私の答えは一つでした。

そして、今私がここにあること、それは当然のことながら、私一人の力ではございません。多くの方に繰り返しお話していることですが、私が学徒動員先の電気試験所で出会った東大工学部卒の清宮博氏、この方との出会いは全ての原点です。清宮氏は終戦直後の朝礼で「日本は戦争に負けたが、電子工業で世界に勝とう」と所員に檄を飛ばされました。私は、彼の熱意に突き動かされるように半導体の世界に足を踏み入れたのでした。同じ、電気試験所時代の指導教官であったと言うべき、関壮夫技師、この方も東大の電気工学のご卒業の方です。彼は卒業時に東大から金時計を授与されました。天才とはこういう人かと私の心に今も残る大きな存在です。この両氏が東北大学の渡辺寧教授の指導のもと、主としてヨーロッパを中心に確立されていた量子力学的固体論という学問が、半導体が将来人類の豊かさを担う産業になることを予見していたのです。ソニーがトランジスタの特許契約をベル研と結び、ベル研はこんなものが社会に役立つとは思わないと言った時からさらにまだ十数年も前の昭和15?6年頃のことです。

お二人がいかに先見の明の持ち主であったかが分かります。その後、戦争が終わって電気試験所長となられた駒形作次氏は、毎週3時間、東大理学部落合教授を初めとする半導体の学者に来て頂き、具体的に勉強会をスタートさせました。関技師がこのリーダーとなり、この勉強会は向こう3年間続いたのですが、かくして、電気試験所には100名を越す半導体エキスパートが育てられたのでした。

私も毎週ここで薫陶を受け、この魅力的な物理学の面白さに酔いしれ、希望に燃える日々を過ごしていました。にもかかわらず、自分の想像だにしなかったレッドパージによって、電気試験所を辞めざるを得なくなった後、私は半導体に関係する仕事をしたいと思い、やむなく新会社を創業して大好きな研究に関わる事業を立ち上げましたのが、タケダ理研工業株式会社の発足したきっかけです。昭和29年のことです。

その後、タケダ理研工業は順調に計測機器メーカーとして成長致しました。かねてより、垂井康夫先生や東京大学教授の菅野卓雄先生にお世話になっており、バイポーラICが全盛だった昭和43年(1968年)に「将来はCMOS。動作限界速度でタイミング測定とファンクショナルテストのできるテスタが必要」との指導のもと、タケダ理研工業は、超LSIテスターの製品化をスタートさせました。

昭和49年(1976年)には、旧通産省主導の官民連携で超LSI技術研究組合がスタートし、垂井康夫先生が所長を務められました。いよいよ超LSI最先端の時代に突入したのでした。

その頃、タケダ理研工業では、当時の電電公社集積回路研究部長の豊田博夫氏に、世界に先駆けて電話交換機を電子化するための「超LSI半導体テスター」の共同開発プランの要請を頂いていました。これで具体的な商品化目標が定まったわけです。これに向けて莫大な投資を行いました。具体的には、当時年間売上高75億円の会社が2年半の研究期間に19億円超を費やすという大胆さでした。その投資の甲斐あって昭和54年(1979年)、武蔵野通研に戦艦大和と呼ばれた巨大超LSIテスターを納品することができました。

実は、この巨大投資を必要とする足かけ10年の一大プロジェクトを巡り、私は銀行出身者による武田社長退陣劇に見舞われました。製品完成間近になっていたにもかかわらず、私の誤った巨大研究開発投資が理由だと言うのです。プロジェクトの成功を信じて、敢えて私は退陣の道を受け入れましたが、その後、タケダ理研工業の経営は、開発しないから製品も出ないというダッチロール状態となってしまいました。その救済のため、私はかつての電気試験所の上司で当時、富士通社長となられていた清宮博氏のところへ赴きました。そこで氏は、次期富士通社長の呼び声が高かった海輪利正氏をタケダ理研工業の新社長として派遣してくださったのです。

超LSIテスターのプロジェクトは、私と海輪新社長の時代にかけて実施されたものですが、これをやり遂げたことは富士通清宮社長の意志決定があればこその大成功でした。かくして、タケダ理研工業は半導体テスター世界ナンバーワンの地位へ上りつめ、当時、株価は東証日本一の株価1万5千円を達成しました。海輪社長の二代あとの大浦溥氏はやはり東大の法学部のご卒業ですが、2000年3月に過去最高売上を記録し、株価2万8千円を達成するなど、現在のアドバンテストの躍進があるのは一重に大浦氏のお力によるものです。売上高は私の退陣した昭和50年(1975年)から25年間で約18倍へと成長を遂げました。

私の半生はなんと多くの方に助けられてきたことでしょう。私が成功させたのではなく、成功させて頂いたようなものです。これらの出会いや指導がなければ、今日の私は決してありません。その中に大勢の東京大学のご卒業の方々の存在があることに改めて気付く次第です。

私の縷々述べて参りましたことは、次のことを言いたいがためです。これは人生をかけての実感として思うものです。世界の人類にとって一番大切なものは、お金ではありません。大きなお金は投資されることにあるのであって、それによって人類にとって新しい価値が創り出されることが最も大切です。そして、卓抜した人材が育てられること、有効な投資が行われる社会こそ人類の豊かと幸せを生み出すのだ、ということです。

この新しいビルで、人類に豊かさと幸せをもたらす新しい価値を生み出す人材が数多く輩出されることは私にとって大変名誉なことです。冒頭に述べました、「先端知」でございますが、何も応用の先の先という狭義の「先端技術」だけではなく、従来の学問や他分野の学問との融合やコラボレーションこそ「先端知」には欠かすことはできないと思います。東京大学において卓抜した人材が育てられ、「先端知」、ひいては人類にとっての新しい価値が生み出されることを祈願して、ご挨拶に代えさせて頂きます。

ご静聴ありがとうございました。